2006年2月14日(火)
リオデジャネイロ市の住民、または、リオデジャネイロ市生まれの人を、カリオカ (Carioca) と呼んでいる。だが、本来の意味はちがう。ツピー系インディオの言葉で、カリオカ (Karioka) は、カライワ (Kara’iwa) と、オカ (Oka) の合成語。前者は「白い肌の男、白人)、後者は「家」という意味。ふたつ合わせると、「白人が建築した家」、「白人の家」になる。
リオに初めて上陸した探検隊は、アンドレー・ゴンサルヴェスが率いるポルトガルの船団で、一五〇二年一月一日にグアナバラ湾へ到着。グアナバラ湾は入り口がせまく、奥が深い。ゴンサルヴェスは、これを川(リオ)と推測した。元旦だったため、「一月(ポルトガル語ではジャネイロ)の川」という意味で、リオデジャネイロと命名。
つづいて、一五〇三年の半ばころ、リスボアを出帆したゴンサーロ・コエーリョ隊は、ブラジル沿岸を南下し、グアナバラ湾へ入った。入港の日付は不明。ゴンサーロ・コエーリョは、上陸するとすぐに、海岸に面した場所へ住宅を建築した。石造で、インディオの草ぶき小屋とはまったくちがう。異様な建築に驚いたインディオたちは、これを「カリ・オカ」(白人の家)と呼んだ。ポルトガル人は、この言葉を借用し、集落のある場所が湾口(「一月の川」の河口)だったため、カリオカ河口 (Embocadura de Carioca) と名づけた。こうして、カリオカは地名として残されることになった。
ゴンサーロ・コエーリョ隊は、一五〇六年にポルトガルへ帰国。少数の隊員は残留したが、やがてインディオの襲撃を受けて全滅。石造家屋も破壊された。その正確な場所は、記録にないため不明。一五三二年、マルチン・アフォンソがやってきて、同じくグアナバラ湾に面した場所へ、住居を建築した。これも石造で、一世紀以上も存続。その間、この地はカリオカ河口と呼ばれていた。ちなみに、グアナバラは、「海に似た大きな川の河口をなす入江」という意味。
一五六五年三月一日、メン・デ・サーが、リオの建設をはじめたとき、新しい町にサン・セ・バスチアン・ド・リオデジャネイロと名づけた。現在のボタフォゴ海岸である。その後、メン・デ・サーは、行政本部をカステロの丘(現セントロ地区)へ移転したため、ボタフォゴの市街地は、「シダーデ・ヴェーリャ」(古い町)と呼ばれた。
カリオカが、「リオデジャネイロ出身者」という意味で、ひんぱんに使われはじめたのは、十九世紀末のこと。一八九一年発布の共和国憲法で、グアナバラ州(現リオデジャネイロ州)が設置されたとき、リオデジャネイロ市在住者は、「カリオカ」と呼ばれた。市外在住者の呼び名は、フルミネンセ (Fluminense) 。連邦首府と、そうでない地域を区別するために、それぞれちがう名を採択したもの。フルミネンセは、ラテン語で「川」を意味するフルメン (Flumen) に由来する。ポルトガル語風に発音し、「リオ生まれの人」とした。このように、正式な地名とはちがった名称が使われる例は、ほかにもある。
エスピリット・サント生まれの者はカピシャーバ (Capixaba) で、「草本(農産物)を売る人」という意味。リオ・グランデ・ド・ノルテ生まれはポチガール (Potigar) 。先住民のうち、ポチガーラ族 (Potigaras) が住んでいたことによる。リオ・グランデ・ド・スル生まれはガウショ (Gaucho) 。「ラ・プラタ川下流地方生まれの人」という意味。サルヴァドール市生まれはソテロポリターノ (Soteropolitano) と呼ばれる。「ソテロ(救世主)の町に住む人」という意味。【文=和泉雅之】
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