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25年=交流協会生=コロニアと共に=歴史編1=連載(1)=日伯の架け橋になる若者達を=斎藤、玉井氏ら構想「巨木に育てよう」

2006年2月17日(金)

 日伯の将来は両国若者の未来にかかっている―。日伯百年の計には「人を植え」架け橋的人材を育成する、との理想をかかげ、日本ブラジル交流協会は一九八一年から現在まで七百四十八人もの日本の若者をブラジルの大地に植え続けてきた。現在、OBは「ブラジルでの一年間」を模索しながらブラジル、日本はもちろん、世界で活躍している人も多い。今年で四半世紀。節目の年を迎えた。去年六月には「派遣事業中止」の報が流れ、コロニアでも波紋が広がっていたが、二〇〇七年からは「新しい交流協会」として事業を開始する。二十五年という歴史の重みを認識し、OBが結束して継続・発展に向けて動き出したところだ。同協会設立以前から青年交流に心血を注いできた先達の貢献を思い起こし、今までの「ニッパク」を振り返る。 (南部サヤカ記者)

 二〇〇五年四月十二日の文協貴賓室。緊張気味の面持ちが並ぶ。日本ブラジル交流協会生の到着歓迎セレモニー。過去最多の四十八人が研修生として来伯した。これから待ち受ける「ブラジルでの一年間」に対する希望に胸膨らませる。毎年、前期生と入れ替わりに次期生の新たな流れが引き継がれる時期。ブラジル日本交流協会の山内淳会長や、二ノ宮正人理事らは激励の言葉を述べた。研修生受け入れ先企業・団体の引受人と初めて対面する場でもあり、ここから研修生活がスタートする。
 二十五年間にわたり、青年たちがこのブラジルの大地を踏んできた。その歩みをここで振り返る。
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 「気宇壮大に生きれば人間は巨木に育つ。ブラジルはその格好の地だ」。一九八一年、派伯前の記念すべき第一期生十三人を前に、故・永野重雄交通遺児育英会会長(当時、日本商工会議所会頭)は大きな地球儀をまわし、ブラジルを指さした。  
 七五年、「日伯の未来は両国若者にかかっている。青少年交流を進めよう」と日系社会に呼びかけ「日本の若者を育て活躍させる会」を発足させた。これが現在のブラジル日本交流協会の基盤となっている。
 もともと、この構想をあたためていた故・斉藤広志初代事務局長は、この事業に余生をかけた。日本側の事務局長を務めていた玉井義臣現会長(あしなが育英会会長)は、「石にかじりついてでも学生二百五十人をブラジルに送る。この二百五十人を千人力に鍛えれば立派な架け橋になる」との理念をかかげ、協会の発展に尽力してきた。
 「活躍させる会」発足当時は、交通遺児を対象としたものだった。大学奨学生二人を一年間の研修で派伯。高校奨学生三十人も短期研修生として渡伯した。
 ブラジル倫理研究所の山田充伸支部長(69)も高校生を引き受けたうちの一人。コチア青年として来伯した。斉藤さんがコチア産業組合の指導者らと懇意であったことから、産業組合中央会で引き受けることに決まった。「高校生らに説教したら、『こんなに厳しいこと言われたの初めてだ』と感想を漏らしていたのが印象的だったよ」。玉井会長からの、交流事業についての相談にもよく乗った。「一つだけでもブラジルの良さを教えることが将来の布石になる。人材育成をもっとしなければならない」。山田さんも斉藤さんに共鳴したうちの一人だった。
 「あの子らももう大人ね」。斉藤さんの妻、志津さん(82)も交通遺児研修生の面倒をみた。一九三三年に来伯。現在は、エスペランサ婦人会に顔を出している。「日系社会も二世になってきて、日本からどんどん新しい血をいれないとね。主人もそれを強調していましたよ」と思い出す。
 七六年には、永野元会長が、訪日していたガイゼル大統領と会談。「日本ブラジル青年交流協会」の構想を提案し、すべての若者を対象に門戸が開けられた。
      (つづく)