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25年=交流協会生コロニアと共に=OB編4=連載(9)=自分にしかできない体験=石田さん=自信得て今の原動力に

2006年3月4日(土)

 すぐには再来伯できなくても、駐在員としてブラジルで働く協会生OBが多い。「帰ってからも七年間ブラジルへの想いを胸に抱いていた」という田辺裕之さん(32、十六期生、静岡県出身)。帰国後の就職活動では「ブラジル、ブラジル…。とにかく駐在できるような会社の面接を受けた」。二〇〇三年から日本精工ブラジル駐在員として働いている。
 「ここが、いい制度だと思った。一年ってちょうど戻って来たい年数でしょ」と笑う。日伯毎日新聞社で研修をしていた。ポルトガル語学科生だったため、日本語ばかりの環境に初めは「帰りたい。カレンダーに一日ごとに×印をつける勢いだった」と思い出す。
 「でも今しかできないことをしようと思った。それが移民と話をすることだった」。もともと、いろんな人の話を聞くのが好き。 「日系社会にどっぷりはまってからは楽しくて仕方なかった。人との付き合いが初めは点だったけど、だんだん線になる」。
 この経験が、社会人になった今でも活きているという。今はブラジル人を使う立場。「ブラジル社会にどっぷり。点から線へ。今度はブラジル社会で自分のコミュニティを作る」。
 日本に帰ってからも、日系社会で知り合いになった人たちとの縁を切らしたことはない。ブラジルに戻ってきても同じ。「またみなさんと酒を飲み交わせるのが嬉しいです」。
     ◎
 大学構内に貼られたポスターの「働きながら学ぶ」というフレーズ。「旅行者じゃない経験が積めると思った」。第十二期生として渡伯した石田博士さん(36、岡山県出身)は現在、朝日新聞社中南米支局長として、サンパウロを拠点に南米を飛び回る。「会社に入ってブラジルのことしかできませんとは言いたくなかった」。日本で十年記者生活。去年、サンパウロ市に赴任した。
 「ブラジルで自分にしかできない体験をできたと思えた。自信がついた。これが今の原動力になっている」。サンベルナルド・ド・カンポ市役所で研修。ノーバ・エスペランサというファベーラで「市民として自覚を持ってもらうため」の改善事業活動をした。最後の一ヵ月は「日伯毎日新聞社」でも研修した。
 高校生の時からジャーナリズムに興味があった。立花隆著の『宇宙からの帰還』を読んだ。記者になれば「こんな岡山の片田舎でも月に行った人の気持ちまでも知れる」。心を打たれた。たまたま目にした交流協会のポスターを見て渡伯を決意。事前研修の五十冊読書は「苦痛だった」。だが今は「五十冊のリストを探し出して読みたいと思う。日本のこと知らないとまずい」。研修中、日系人との交流で自身を客観的に「日本人」と見るようになった。
 阪神大震災時。各地方から記者が駆けつけた。他のベテラン記者が遺体安置所で、誰でもできる名簿確認や死亡者確認をする中、石田さんは「被災した在日ブラジル人」について取材調査を希望。新米記者だったが、「何かを持っている人間は何かをやらせてもらえる可能性があると思った」。ブラジルで考えていたことが活きていると実感した瞬間だった。
(つづく、南部サヤカ記者)

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