2006年3月8日(水)
日系社会ニュース
去年九月に行われた二十五期生(二〇〇五年度)の中間研修。マナウス、ベレン、リオデジャネイロなど各地方で研修する協会生も一堂に会し、それぞれの経験を発表した。ともに事前研修をこなし、同時期に渡伯。与えられた時間は同じ「一年間」。その分、研修に対して交流協会生ならではの「特別な想い」があるようだ。
ある研修生の言葉。「どうしても、他の研修生と比べてしまう。自分よりもいい経験をしてるとか、ポルトガル語が上達してるとか……」。ほとんどの人がそのような感情を抱きつつも、九月までに得たことを話す。それに対して、ブラジル在住のOBが集まり、コメントをする。山内淳会長も参加し、ブラジル政治について講義をした。
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研修生たちの気がかりは「派遣事業一時凍結」の報だった。藤本明司事務局長が事の流れを説明。バブル崩壊後、企業賛助会員が減少し、研修生が一人九十万円払う参加費に頼らざるをえない財政状態になり、参加者数を増やしつつ運営を続けてきた。それに伴い、引き受け先を探すブラジル側の負担は徐々に重くなり、査証の発給も条件が厳しくなるなど取り巻く環境は変化していた。
OBらが四半世紀続いた制度を「存続させたい」と結束。協議した結果、二〇〇七年度からはブラジルに軸足を移し、次期二十六期生を日本から受け入れることになった。藤本事務局長は「二十五年が日系社会に与えた影響は大きい。絶対にやめたくない。OBらを信じてやっていこうと思う」と話した。
二十五期団長を務める平本明日美さん(23、神奈川県出身)は「驚いた。私たちの研修が始まったばかりだったし、これからの研修が例年通り行われるのか心配でした」との感想を話していた。
日系社会でも波紋が広がった。サンパウロ人文科学研究所の宮尾進顧問は「ブラジルでの経験があるOBらがやっていくのは大変だろうが非常にいいこと。もっと実質的な交流を目指せるはず」。
ポンペイア西村農工学校の西村俊治校長は協会に深い理解を寄せ、第一期生(一九八一年度)から現在まで十六人の研修生を受け入れてきた。「事業中止の報を聞いたときは全く晴天の霹靂でした。残念でした」と話し「研修生個々を見てきて、一年後の成長ぶりを目の当たりにしてきた。言葉の壁、習慣の違いを乗り越えてこの制度の意義深さを感じて居ります」とのコメントを寄せた。
山内会長は「二十五年もたてば社会情勢も変化するし、研修生の体質も変わる。今まで同じ事をずっとやってきたから、新しい時代に適応させた制度にしようと模索する動きです」と説明し「今の交流協会では本当の意味での交流はできていない。OBもたくさん活躍している」と今後の交流協会へのあり方を示唆した。
二十五年の歴史。日系社会でも「残念だ」「続けて欲しい」などの声が上がり、いかに交流協会が認められてきたのかを実感するできごととなった。
(つづく、南部サヤカ記者)
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