2006年3月15日(水)
福博村の入植七十五周年慰霊祭が十一日、スザノ市の福博村会会館でしめやかに執り行なわれた。村内外から約七十人が訪れ、先亡者の霊に思いをよせた。七十五周年記念行事の最初を飾る、この日の慰霊祭。福博村では、九月の記念式典に向けて様々な事業を予定している。この日、会場では昨年九十周年を迎えた平野植民地の記念ビデオも上映された。福博でも七十五年の節目に記念のビデオ制作を計画している。
「朝八時着聖。一同と自動車でノルテ駅(現ブラス駅)に出て十時半の汽車で無事乗り換えスザノ駅に十二時半安着。果樹園に午後一時また安着。一同と晩食す。安着祝いに一杯のピンガだった」。草分け入植者の原田敬太氏の日記に記された、入植の日の様子である。
福岡県出身の原田氏が福博の地に入植したのが、七十五年前の一九三一年三月十一日。村ではこの日を入植記念日として、六十周年までは十年ごとに、それ以後は五年ごとの節目に慰霊祭を行っている。
土曜日ということもあり、この日会場を訪れた人は約七十人。東本願寺の川上寛祐師、スザノ金剛寺の菅野信隆師が導師をつとめる中、出席者が焼香した。
前回の慰霊祭が執り行なわれたのは、二〇〇一年の七十周年の時。この日は、それ以後の五年間に亡くなった二十五人の故人の名前が読み上げられた。
福博村会の高木政親会長は追悼の辞で、先人への敬意を表わすとともに、「今後とも村の明日を担っていく私たちを見守っていただきたい」と語りかけた。
七十年代の最盛期、福博には二百家族、約千五百人が暮らした。現在の人口は約百二十家族。三百五十余人が亡くなっている。
川上導師の法話の後、村会元会長の杉本正さん(89)が謝辞を述べた。
かつてはスザノ町と呼ばれたこの地に移り、子供の将来を託す地として子弟教育、村の発展に尽くしてきた先人たち。杉本さんは開拓初期の苦難を乗り越えて村を築き、村の存在をコロニアに知らしめてきた先人の功績を称えた。そして「福博村の歴史は、日系移民史の一角だと思います」と述べ、先没者、遺族へ謝意を表わした。
法要の後は食事を囲んで出席者が歓談。その後会場では、昨年入植九十周年を迎えた平野植民地の歴史を描いたビデオが上映された。
◎
今年入植七十五周年を迎えるスザノ福博村。九月には記念式典が行われるほか、節目の年にあわせ様々な記念事業が計画されている。その一つが、記念のビデオ制作だ。
慰霊祭当日に会場で流された平野植民地のビデオは、昨年開かれた九十周年式典の様子を中心に制作されたもの。
笠戸丸移民の通訳としてグアタパラ耕地に入った故・平野運平が、一九一五年に二十余人の若者を連れて入植した時のエピソードや、マラリアの蔓延、バッタの襲来、旱魃など初期の植民地を襲った悲劇。また当時の農業風景や、学校や産業組合の様子などを、映像、写真、インタビューを交えて植民地の歴史を紹介している。
福博村でも、七十五年の節目に、村の歴史をたどるビデオの制作を計画している。大浦文雄村会顧問は上映にあたり、「七十五年を迎えた私たちの村の歴史をまとめることが、皆の願いとして芽生えてきたら」と期待を表わし、協力を呼びかけた。
現在、ビデオの内容について専門家と検討を進めている。今年中の完成をめざしているという。