2006年3月17日(金)
高野書店の高野泰久さんが引き受けた学生のうち十七人は、あしなが育英会の交通・災害遺児。「彼らの父親代わりになれるだけの資格もなく、人生経験に乏しい身であるが、日常生活をともにしながら交わす言葉など、これからの長い人生のどこかで思い当たってほしい」。そんな願いを込めての十一ヵ月の研修だ。
両国若者との接点をつくりたい―。日系ブラジル人学生約百五十人で組織する医療・保険衛生向上のための慈善団体「ABEUNI」への参加を始めた。協会生とブラジル人学生の交流。これも一つの研修の成果となっている。
グアルーリョス空港。まもなく帰国する研修生たちを毎年見送る。その胸中は第五期生(一九八五年)帰国の時以来、繰り返してきているひと言のみ。「十一ヵ月もの下見研修おつかれさん。君たちの言うニッパクとは今、ブラジルから飛び立つこの離陸の瞬間から始まるんだよ」。
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去年三月にブラジル事務局に赴任した藤本明司事務局長(40、宮崎県出身)。半年もたたないうちに「派遣事業一時停止」の報を聞いた。この一年は、研修生の世話をしつつ、この問題に頭を抱えた。
「ブラジルは好きではないけど」と、来伯五度目になる藤本事務局長は言う。同期で親友の神戸保さん夫妻が協会を手伝っていた。「一生懸命やっているのを見たから手伝おうと思った」。研修が終わり、帰国後しばらくは、日本社会で勤務。辞職後、ブラジルへ旅行のつもりが「神戸が困ってるみたいだったから手伝ってた」。本格的に協会に関わり始めたのは十九期生(一九九九年度)の第二回合宿から。
第六期生(一九八六年度)として日伯毎日新聞社で研修。「男一匹」と敬意を込めてよぶ一百野(いおの)勇吉さんとの出会いがあった。当時編集長を務めていた。「幻のジャーナリスト。もうこの人がすっごいかっこいいのよ。男とはどういうものかを教わった」。帰国時は「藤本、さらばー!」と涙を流しながら見送ってくれたというエピソードも。彼のことを話しだすと止まらない。九一年に他界。藤本事務局長にとって、その後の人生を左右するほどの大きな出会いだった。
二〇〇七年度の派遣事業開始に向けて、日系社会への派遣中止にいたるまでの説明、日本とのやりとり……。寝る間を惜しんで、協会存続に向けて尽力した。
「人生をかけてやっている」。OBとして、二十五年の歴史・伝統を踏襲しつつ次期二十六期生を受け入れるため、準備に励んでいる。
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若者の瞳に夢をかける人たち。日系社会に、そしてブラジルに対して日本からはどのような「架け橋」を構築していくか。ブラジルではそれをどう支えていくか。末っ子で終わることなく次期につなぐ―。次の四半世紀に向けて「新しいニッパク」が始動する。(おわり、南部サヤカ記者)
■25年=交流協会生=コロニアと共に=歴史編1=連載(1)=日伯の架け橋になる若者達を=斎藤、玉井氏ら構想「巨木に育てよう」
■25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編2=連載(2)=学問の師との出会い=3期生森さん=帰国後4ヵ月で〃帰伯〃
■25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編3=連載(3)=ブラジルの青年を「招日」=事務局設置,藤村氏が次長に
■25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編4=連載(4)=博識のアドバイザー=田尻鉄也さん=深く刻まれた記憶
■25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編5=連載(5)=非日系受入れ団体探す=篠原さん=北伯、南伯へも広げる
■25年=交流協会生コロニアと共に=OB編1=連載(6)=研修時、未熟だった=島さん=再挑戦しようと渡伯
■25年=交流協会生コロニアと共に=OB編2=連載(7)=すでに人生に組込まれた「軸」=神戸さん「日本は息苦しかった」
■25年=交流協会生コロニアと共に=OB編3=連載(8)=日本にいても心はいつも…太田さん「ブラジル音楽」へ
■25年=交流協会生コロニアと共に=OB編4=連載(9)=自分にしかできない体験=石田さん=自信得て今の原動力に
■25年=交流協会生コロニアと共に=OB編5=連載(10)=ブラジル産品しか売らない=○○さん(本人の希望で削除しました)=広島県でこだわりの店
■25年=交流協会生コロニアと共に=25期編1=連載(11)=日本側送り出し一時凍結=OBら「存続」に立ち上がる
■25年=交流協会生コロニアと共に=25期編2=連載(12)=同じ思い共有してくれる存在=記録映像作家の岡村さんにとって
■25年=交流協会生コロニアと共に=25期編3=連載(13)=過酷な渡伯前の研修=毎年、協会方針に疑問持つ人も
■25年=交流協会生コロニアと共に=25期編4=連載(14)=支払う費用「90万円」=「高過ぎる」=「実費以下だ」の声
■25年=交流協会生コロニアと共に=25期編5 =連載(15)=〃ブラジルでの父親〃の生き方=畠山さん=「人生にとって大切」と学んだ