2006年3月24日(金)
九十一歳で現役のセールスマン──。山賀徳二さん(新潟県出身)がサンパウロ市リベルダーデ区に事務所を構え、段ボール製作機などの代理販売を手がけている。一九二七年、十三歳の時に構成家族の一人として渡伯。紆余曲折を経ながら、移住先国で基盤を築いてきた。健康長寿の秘訣は、人生に意欲を失わないこと。人生にはチャンスが三回あるという、山賀さん。次は、健康産業にも携わりたいと張り切っている。
両手いっぱいに、商品サンプルや資料を持って、ふらつかずに歩く。その姿は、とても九十歳を超えているようにはみえない。
清潔な身なりをしており、仕事をしなくても生活できるようになる。「働かないと、食っていけないでしょう」ときっぱり。一度話し始めたら、なかなか止まらない。セールスマン魂か──。
段ボール製作機などの販売に当たって、三、四人の自由契約者を雇用。購入希望者(企業)を紹介してもらう。売買契約の成立は、山賀さんの力量にかかっているわけだ。一台売れば、かなりの収入になるため気は抜けない。
山賀さんとはリベルダーデ区内のレストランで会った。肩が凝るという従業員の愚痴を聞くなり、自身が発明したという木炭入りのマットを売り込んでいた。商魂は九十歳を超えても、衰えを知らないようだ。
「健康維持のこつは、薬草にしても食品にしても、人がいいということは何でも試すことではないでしょうか。防腐剤もあまりよくないと思う」。
実家はそば屋で、新潟市内の学生の多い地区で営業していた。小学校卒業後に構成家族に入り、一九二七年に渡伯した。
「英語が身に付くと思って乗船したんだけど、船内の教室にいったらポルトガル語で……。まだ判断力がない年代ですから」。
コーヒー園(パラナ州カンバラ近く)での労働はきつかった。マラリアのために、ドクター・ストップがかかり、治療のためサンパウロに出た。
「着の身着のままだったんです。サンタ・カーザに入ったら、同じような境遇の日本人が二十人ばかりいた。相撲をとるなどして、結構楽しみましたよ」。
山賀さんは病状が快方に向かった後も、しばらく病院に残り梅毒検査などに携わったという。
「マラリアの高熱に苦しんだ患者は脈の打ち方が健康な人と異なるそうです。私は医学生の前で裸にされ、いろいろ触られたんですが、女子学生も多くて余計に胸が高まった」とこぼれ話も。
戦前は鐘紡系の会社を経て、帽子を生産した。紡績機械を日本から持ち込んで、それをモデルにして国内で同様の機械をつくった。「枢軸国に対する規制が、強化されていく時代だった。家内工業とすることで、働き口を失った家族を救うことにもなったのでは」。この事業もまずまずの利益をもたらした。
戦後になって、段ボールの代理販売などをスタートさせた。「人生には三回チャンスがある」と山賀さん。次に狙っているのが健康産業。木炭入りの枕やベッド・マットを発明し、玄米食にも触手を動かしている。
「人生はまだまだこれから。百二十歳まで生きたい」。山賀さんは、照れながら語った。