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心を病む国、ブラジル=「倫理」は死語に=立場変われば汚職容認の国民=裏金は伝統とうそぶく大統領

2006年4月5日(水)

 【ヴェージャ誌一九四九号】シェイクスピアの悲劇「ハムレット」の見せ場は、王の亡霊が現れ王国のスキャンダルを憂いたという件である。ブラジルも似たような場面にあるらしい。大統領が心を病んでいるなら、ブラジル全体が病んでいる。十一カ月にわたって果てしない政治危機の泥沼をさ迷った。命名してマルセロ・シンドロームと呼んでいる。政府も国民も、倫理は死語となったらしい。元帥の一存で民間機を止め、妻を乗せる。軍隊は、麻薬組織と盗まれた武器の取引をする。裁判官は、特権維持のためストをする。ブラジルはどこかが変だ。全体にタガが緩んでいる。
 ブラジルの上層階級を蝕んだ倫理の喪失は、社会全体に浸透するのか。政府のモラル退廃により、無政府状態にならないのか。ブラジルを舞台にインフレ抑制など数々の実験が行われ、いまや理想的国家として完成しつつあったのだ。
 有識者は、ブラジル国民を純粋で理想的人種と思っている。悪いのは、汚職を企てる一つまみのエリートであるという。社会学者のリベイロ氏が、そうではない、倫理の欠如は国民にあると「汚職論」を書いた。典型的例が、ナチス・ドイツを生み出したドイツ国民であるというのだ。
 ブラジルの国民性を語るには、別の見方がある。奴隷制度が長く続いたこと。宗主国ポルトガルの理不尽で非道な圧政に苦しんだこと。国民は長い間選択肢を持たず、皇帝の命令を従順に履行するしかなかった。表向きは服従したかに振舞い、内心は反旗を翻して自由を模索した。
 ブラジルの歴史は自由が許されてから日が浅く、寡占政治による試行錯誤の時代にあるといえる。国家の命令が国民の思惑と一致するなら、産業は栄え個人も秩序の保持に協力する。政府の施策が悪いと、国民は抜け道と奸策をめぐらす。
 Ibopeが国民の行動を調査したところ、九八%は罰金を免れるためワイロを提供したり、医者にニセ診断書をつくらせたり、海賊版商品を購入するなどの違法行為を経験済みであると白状した。汚職は違法行為と知っているが、自分がその立場にあれば矛盾を容認するという。
 社会科学では、矛盾を容認するブラジル人のルーツを研究している。上流社会では、一族の絆が全ての根底にある。法を犯しても一族起用は妥当と思っている。汚職も一族意識の延長にある。国家とは、延長の延長にある人間関係か運命共同体と考えている。
 国家運営に携わると、公私の区別があいまいになり、汚職は犯罪という意識が希薄になる。公共団体と委託企業の関係も、同じように病的な癒着関係となる。政商的存在となった委託企業が裏金を提供し、子飼い議員を国会へ送り込む。ルーラ大統領は裏金をブラジルの伝統だとうそぶいてはばからない。
 裏金を工面したジルセウ氏やパロッシ氏など側近を犠牲にし、大統領はその恩恵に預かりながら汚職など知らぬ存ぜぬで押し通す。党員らの犠牲的精神でヌクヌク栄えるルーラ大統領のPT政権は、一皮むけば「八紘一宇」もしくは「玉砕国家」といえそうだ。
 ローマ法王ベント十六世は、アインシュタインの相対性理論が大嫌いだ。相対性理論によれば、全ては相対的で絶対的なものはないという。汚職は貧しい国民に配るべきカネを汚職政治家が一時預かったのだ。そのカネは一巡して貧乏人に還元される。
 景色を眺めて山を見るか谷を見るかで、見方が異なるらしい。山も谷も一つの景色である。ベント十六世は絶対的善を定めようと考えたが、世界には数え切れないほど絶対的善があるので、定義をあきらめたようだ。汚職に対する善悪の判断は見方によるらしい。