2006年4月20日(木)
「日系人が利用しやすいように、援協総合診療所をもっと別なところに移すのが我々の夢なんだ」。二〇〇四年十一月末。和井武一援協名誉会長が、診療所内の静養室でそう明かした。
自宅に介護が必要な妻を抱え、本人も足のけがが悪化、満足に援協にも通えなかった。九十年歳を超えた〃長老〃が重い口を開いて言った、最後の願いのように聞こえた。
診療所の二〇〇五年度受付数は、歯科医、巡回診療を含めて、八万九千四百六十八件。利用者の八五%が日系人。六十歳以上の高齢者が全体の六〇%を超えており、日本語による対応は欠かせない。
六二年から、活動をスタートさせた診療所。〃日系色〃を維持させていくことが、まだまだ求められている。
来診者数と診察科の増加に伴い、空間的な余裕がなくなってきた。特に歯科医は、待合室に患者が入りきれないことも。さらに改修を行ったというものの、福祉部は細かく仕切りなどがなされ、〃迷路〃のようになっている。
このような状況の中で、本部施設建設構想の機運が盛り上がってきた。実は、診療所のスペースについて、文協との間でかつて、長期間の無償貸与がとりきめられた。
移民百周年の記念事業で、日伯総合センター建設案が浮上。文協ビルの取り扱いについて、不透明な部分があったため、援協としては東洋人街から離れるわけにいかないと、本部建設を促す要因にもなったとみられる。
ただ百周年祭典協会の副会長を、送り込んでいる援協。その立場は、かなり微妙だ。本部建設を前面に出し、資金集めを本格化すれば、祭典協会の記念事業と競合しかねないからだ。
二〇〇九年の創立五十周年を強調しても、移民百周年の一年後だけに、一般にも誤解されかねない。移民百周年について、援協は、人材育成を重視。箱物に関心を示してこなかった。
坂和三郎広報委員長(第五副会長)は「デリケートな問題を含んでいるので、いろいろ気を使っているんです」と、苦しい胸の内を明かす。自前の本部施設をつくるとなると、文協ビルから退去することになるので、〃余波〃も少なくない。
それを覚悟で土地の確保に走ったのは、よほどの決断力を要したことだろう。物件探しは内密に進められ、所有者との契約が成立するまで外部には公表されなかった。組織内の勢力争いも絡み、買収を決定するのに当たって、侃侃諤諤の議論があったという。
土地(千三百五十平米)の買収金額は、二百七十万レアル。所有者の池崎博文氏と売買契約が成立したとはいっても、名義が元の所有者である小林住宅のままになっていることや、評価額と大きな開きがあると指摘する声も出ており、すんなり滑り出したと素直に言い切れない。
人材育成を大きくとられるなら、福祉の拠点を後進に残すという意味で、本部建設も意義のあることだろう。夢に向かって、第一歩を踏み出した援協。一枚岩になって実現させることができるのか、今後の動きが注目されている。(古)