2006年4月25日(火)
平安時代そのままの名前の通りを歩き、新緑の東山三十六峰を眺める。京都と滋賀の地方紙に身を置き、日本文化や歴史の遺産に身近に接していながら、歴史や文化を知らずにいたこと、日本とは何なのか、ブラジルへの旅ほど突きつけられたことはありませんでした。昨年九月の約一カ月をブラジルで過ごし、京都と滋賀ゆかりのみなさまをはじめ、多くの方との出会いに恵まれ、取材にご協力をいただいたこと、心から感謝しております。サンパウロで一世の方のやわらかな京言葉に接した時の震えるような思いは、忘れることができません。日本ではいま、たくさんのブラジル生まれの子どもたちが、日本のことも、ブラジルのこともよく知らず、未来図をうまく描けずにいます。彼らがしなやかに、二つの国の豊かな歴史を生き抜いていくことができるのかどうか、京の町から取材を続けたいと思っています。(京都新聞社会報道部 岡本晃明)
白い帽子、白い体操服に白い靴。行き交う通勤客を気にせず、七十人ばかりが整然と体を動かし、飛び跳ねる。ラジオ体操が朝の街角に響く。腕を大きく上げて背伸びの運動…ハイッ。
ブラジルはサンパウロ。人口千二百万人、世界第五位の大都市だ。
リベルダーデ地区には「日本」があふれる。ラジオ体操の広場からガルボン通を下って大阪橋を渡る。赤い大鳥居。「食事美松」「理髪店」「ヴィクトル靴店」。かなや漢字の看板が並ぶ。たこ焼きの屋台、大福餅(もち)…店先にゴボウ。演歌のCDも売られている。
市内に住む大久保光子さん(八八)を訪ねた。「いまだにポルトガル語わからしません」。京都市上京区出身。「西陣で織物をしてまして、ブラジルには着物がない言うて、夫と織物のマキナ(機械)持って来ました」
一九四一年。真珠湾攻撃の年にブラジルに渡った。「乗ってきた移民船は帰りにポンッ、爆沈しました。夫が図案を描いて、ネクタイ織って。苦労しましたえ」。戦後、父から受け取った手紙に「草の根も食べた」と書いてあった。家族を案じても母国は遠かった。
戦前十九万人、戦後は五万人の日本人がブラジルに渡った。三世、四世へ広がる日系社会は百三十万人ともいわれる。
かつてリベルダーデには日本映画館や日本料理店が並び、一世たちを癒やした。中国系や韓国からの移民が増えた今は「東洋人街」だが、商品に限れば日本にあるものはまずそろっている。
日本式のラーメン屋で、陽気なブラジル人が「ハイ、塩一丁!」と応対する。近くの店頭で日本語で応じてくれたお年寄りは台湾からの移民だ。沖縄県人会館前では懐かしい気もすれば、異国とも感じる。滋賀県出身の男性(五四)は移民社会を「ブラジルに渡った時のまま、日本のイメージが止まってる。里帰りしても変わったのは日本の方だと思っている」と評す。
祖父母が沖縄出身でビデオアーチストのマルシア・ヴァイツマンさん(三二)は日本語ができない。「ずっと日本人と呼ばれてきた。見た目の違う移民の子はある種の型で見られる」。父や親戚もほとんど沖縄のことを知らない。昨年、沖縄で撮った作品に「(南米から)日本に戻った人は日本人とみなされない」とナレーションを入れた。
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「ら抜き」言葉もなく、敬語で日本語を話す二世がいる。日本語を知らない三世も「ジャポネーゼ」と呼ばれる。日本人の定義は何だろう。国籍なのか、血のことなのか、言葉が条件なのか。
京都、滋賀からも海を越え、ブラジルに生きる人がいる。戦後六十年の今年、近隣アジア諸国との関係から「国家」や歴史認識が論議される。あの戦争と戦後をどう語ればいいのか。日本人とは何か。日本を外から見てみたい。そう思った。(つづく)