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60年目の肖像=日系/ニッポン人―ブラジル発―連載(2)=戦前移民=「10年ひともうけ」国が奨励=移民の苦境、事業に結実

2006年4月26日(水)

 本稿は、京都新聞が昨年一年間、企画連載した記事の一部である。「六十年」は戦後六十年のこと。日本人や社会現象をテーマに広範に取材し、最後にブラジルの日系/ニッポン人が取り上げられた。連載の終章であった。同紙社会報道部の岡本晃明記者が来伯、取材した。岡本記者の本紙読者へのメッセージは昨報のとおりだ。京都新聞社の了解を得て、連載は十二回である。
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 地平線まで、波のようにうねる大地。実習農場の赤土が深く掘り返されている。「ブラジルの米は陸稲ですが、堆肥(たいひ)を使って、ここに水田を作るんです」。経営する農工学校で、職員の作業を西村俊治さんは車の助手席から見つめる。九十四歳。生徒にほほ笑む表情から一瞬、厳しい事業家の目がのぞく。
 宇治市伊勢田で生まれた。生家は製茶業。「手広くやってましたが、傾きましてな」
 京都御苑近くの工業学校を卒業したころは昭和恐慌のさなかだった。父は豆炭工場を経営したが「赤貧というやつです」。開拓を志す若者を育成していた東京の「力行(りっこう)会」に入る。一九三二年、神戸港から出港した。二十一歳。トランク一つ、本箱一つ。四十日余りの船旅だった。
 「海外雄飛」と国は移民を奨励した。凶作で農村は疲弊し、失業者が町にあふれた。軍事費が国家予算を圧迫し、日本の未来に暗雲が立ち込めていた。「十年ひともうけ、そんな言葉がはやったんです」
 多くの日本人と同様、コーヒー農園で働いた。慣れない重労働。エンシャーダ(くわ)を持つ手が血だらけになった。一年で農場を去り、家庭奉公で貯めた金で語学を学び、サンパウロの工場で働いた。日本語教師をしていた妻と出会う。「妻の親戚に結婚を反対されました。移民は棄民だった」。生活苦は続く。
 サンパウロから四百キロ離れた鉄道の終着駅・ポンペイアは土ぼこりの舞う田舎町だった。当時は水道もない。知人もいない。「何でも修理します」。そう看板を掲げて修理業を始めた。自動車からピストルまで、どんな修理も引き受けた。
 終戦で日系社会は二分し、敗戦を受け入れた人と戦勝を信じる人が争った。

 勝ったかとひつこく吾子はたずぬなり 憂わし顔に吾をみつめて

 妻の智恵子さんは歌を詠みはじめた。
 転機はコーヒー園に殺虫剤をまく機械だった。「米国製だがすぐ壊れる」と客。耐久性が向上するよう試作を重ねる。製品は売れた。
 コーヒー農園の経験も生きた。政府からコーヒー豆収穫機の開発を依頼され、七年をかけて完成。賃金の高騰で苦境にあった戦後ブラジルのコーヒー生産に、機械化が寄与した。町工場はジャクトという会社になり、世界五十カ国以上に農業機械を輸出する従業員二千五百人の企業グループに成長した。

 幼等のざわめき話すは葡(ポ)語にして 時々歌う日本語の歌

 成長した息子たちに事業を任せ、西村さんは農工学校を開いた。広大な学校で生徒はトラクターを操り、全寮制で実習する。日本の研修生もいる。
 「私は力行会で『五族協和』の理念を教わっておりましたから。ブラジル社会に溶け込んだのが良かったかもしれません。戦前の日本人は移住地でも日本語で日本の生活をしていた」

 聞く程に故国の山河恋しけれ 子等の故郷は此処と思えど

 智恵子さんは四年前に故人となった。西村さんは妻の名を冠した技術訓練校を開いた。
 西村さんは宇治市に里帰りした思い出や京都の旧友を懐かしんだ。「もうこの年齢です。京都には行けないでしょう」。手を強く握ってきた。つづく (京都新聞社会報道部 岡本晃明記者)

■60年目の肖像=日系/ニッポン人―ブラジル発―連載(1)=日本人街=漢字の看板や店先に演歌のCD