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47年目のあめりか丸同船者会=50人が旧交温める=「今では笑い話」たくさん

2006年4月26日(水)

 四十七年目の同船者会――。一九五九年四月に着伯した「あめりか丸」の同船者会が二十三日、ブラジル宮城県人会館で開かれた。今年で二十九回目を数える同会にはサンパウロ市をはじめパラナ、ミナスなど遠隔地から約五十人が集まり、旧交を温めた。
 あめりか丸は五九年四月九日にベレン港、同二十三日、サントス港に到着した移民船。最初の同船者会は渡伯五年目に開かれ、十人ほどが集まったという。その後、二十年の節目に開かれてから現在まで毎年続く。今年で二十九回目だ。
 当日はサンパウロ市在住の人たちをはじめ、パラナやミナスなど遠方からも参加。夫人らを含め約五十人が集った。世話人の坂東博之さん(徳島)は「二十九回を数える同船者会はコロニアの誇れる会だと思います」と述べ、来訪をねぎらった。
 続いて平井良介さんが(愛媛)が、三年後の五十回目にも元気で参加できるようにと、健康に関する話。「くよくよしないこと」「希望を持つこと」「『もう』ではなく『まだ』と考えること」と〃秘訣〃を話していた。
 先亡者への黙祷。宮城県人会屋上に用意された会場は好天に恵まれ、出席者は食事を囲みながら、昔話や近況など年に一度の集いを楽しんだ。
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 あめりか丸が海を渡ったのは東京オリンピック以前、日本がまだ復興期にあった時代だ。「行け南米の方向へ」―出席者が振り返る宣伝文句が当時の世相を感じさせる。
 今年で渡伯四十七年。船には四百人以上の移住者が乗っていた。コチア青年や開発青年をはじめ、家族、単身移住者、さらに第一回の花嫁移住者十二人も乗り合わせていた。
 他の船と同様、子供のための学校が開かれ、船内新聞も作られた。船上で皇太子(当時)ご成婚のニュースが知らされた。船内ではもちや赤飯、それに小さな鯛も出されたという。
 家族移住者の中にはアクレ州キナリ―植民地への入植者の姿もあった。篠木敏夫さん(兵庫)は十五歳の時、両親らと同地へ。初入植六家族の一人だった。
 ベレン港に到着後、船でアマゾン河を五十日かけてさかのぼった。「食用に牛をたくさん積んでいてね。そのえさの草を刈るためにあちこちで停まるんですよ」と振り返る。
 目的だったゴムの木が成長するまでは生活のため米やミーリョなどの雑作に従事したという。「土地は良かったから米はよくできましたよ」と語る篠木さん。しかし州都リオ・ブランコでさえ人口五万の時代。すぐに生産過剰になった。
 作っても売るところがない。結局、入植した六家族は数年で同地を去る。篠木さん一家も五年で離れた。「出る時は飛行機だったから、道具を売らなきゃいけない。二束三文でした」。
 篠木さんはその後、サンタカタリーナを経てサンパウロへ。「そこから僕のビーダが始まったんですよ」、その口調に乗り越えてきた歳月がにじむ。
 第一回目の花嫁移民十二人もこの船で海を渡った。「横浜でNHKの取材を受けましたよ」と思い出すのは、木下栄子さん(山口)だ。「山口で最初の呼び寄せ花嫁移民でしたから、『しっかり行ってくれ』と、県が盛大な送別会を開いてくれました」。
 サントスに到着。写真と違って真っ黒にやけたご主人を最初は分らなかった。二人で入ったレストランで出たフェイジョアーダに驚いて外に飛び出してしまったのも、今では笑い話だ。
 コチア青年の最盛期だったこの時代。あめりか丸にも二次一回の八十九人が乗っていた。
 出席者には六十七、八歳の人が多くいた。高校の卒業を一カ月早めて海を渡った少年たちも、今では古稀を数年後に控えた年齢。旧知の仲間で話がはずむ。この日集った〃青年〃たちの中には、七百キロ離れたミナス州イガラッペから訪れた人もいた。
 ボツカツから参加した斎藤良一さん(群馬)は十八歳で渡伯した。「高校の校長も兄貴も『行って来い』と言ってくれた。母は反対したけどね」と話す。現在、子供の一人が日本に住んでいる。「今は反対になっちゃったよ」と、グラスを片手に明るく笑った。