2006年5月6日(土)
「立ち退きさせられた日は肌寒い冬の日でした」――第二次大戦中に敵性国資産として接収されたサントスの日本語学校を、陸軍が返還を認める書類にサインをしたとの五日付けエスタード紙に掲載された写真をみて、森口イナシオ忠義さん(71)はまざまざと思い出し、感無量だった。そこには、母の胸に抱かれた自分が写っていた。その建物の一室で生まれた森口さんは、一九四三年のその日以来、足を踏み入れていない。六十三年ぶりに癒されはじめた戦争の傷跡。半世紀にわたる長い運動は、孫の代でようやく実ろうとしている。
三月二十五日付けで、陸軍管財担当のジョアキン・シウヴァ将官がサインした。次の段階は、連邦政府国有財産局が承認することだ。百周年を前にした大きな前進に、返還運動を進めてきたサントス日本人会の遠藤浩会長も「来月の移民の日までには式典をやって祝いたい」と喜びを隠し切れないようだった。
◎ ◎
四三年七月八日、サントス港を出航したアメリカの貨物船五隻がドイツ潜水艦に撃沈されたのを受け、ゼツーリオ・ヴァルガス政権は同地海岸部の枢軸国人に、二十四時間以内の強制立ち退き令を出した。建物や資産を接収した。
「夕方だったと思います。あの建物の横にあった寄宿舎からでて、汽車にのって着の身着のままでサンパウロへでました」と森口さんは思い出す。
父・宇吉さんはサントス日本人会書記、母・義子さんは同学校で日本語教師をしていた関係で、パラナー街一二九番の日本語学校の一室に住み込んでいた。そこで三五年二月、忠義さんは生まれた。その後、建物横に寄宿舎がたてられ、そこへ移り住んで、管理人をしていた。そこにはレジストロなどからたくさんの生徒が勉強にきていた。
「冬の肌寒い日でした」。まだ八歳だった忠義さんは立ち退きの日のことをはっきりおぼえている。
その後、ほとんどの土地は日本人に戻されたが、日本語学校は陸軍が接収したまま、クラブ施設などに使用してきた。「いつか、もう一回入ってみたいと思ってきました」。
戦中に閉鎖されたサントス日本人会。五二年に復活させたのは初代会長に就任した中井茂次郎さんだった。サントス日伯漁業組合の創立者にして、戦前からの同会役員。当初から返還運動を進めてきた。
第七代にあたる上新さん(84、福岡県出身)は二十五年間も会長職を務め、日系・非日系を問わず、たくさんの連邦議員、市議、州議らに頼み込んで運動を続けてきた。陸軍が返還にサインしたとの報を聞き、ただ一言、「長かった」と感想をもらした。
姉が強制立ち退きにあった後にもどったのを追って、五十年前からサントスに住んでいる。「初代会長から、みんながこれを悲願としてきた。積年の夢がやっと果されたな」と胸をなで下ろす。
現在の第八代会長、遠藤さんは「もう間違いないと思う。遅くても来月の移民の日までには返還式典を祝えるのでは」と期待を寄せている。昨年来、百周年祭典協会にも協力をもとめ、百周年記念事業として改めて運動を推進させてきた。
遠藤さんは「二世、三世のひとたちが積極的に関わるようになってから特に進展した。これは特筆すべきことです」と団結を強調する。金星クラブほか沖縄県人会サントス支部、サンビセンチ日伯協会、アソシアソン・アトレチカ・アトランタらも手伝ってきた。
金星クラブの中井定男会長は「陸軍は返還を認めた。残るは連邦政府の決断のみ」。協力者、サントス選出のテウマ・ダ・ソウザ連邦下議(PT)からは先月「うまくいけば六月十八日までに連邦政府から正式に返還される可能性がある」と聞いたと言う。
「昨年から大きく進展したのは、百周年の一環に組み込んでもらい、サントスだけでなく日系社会全体の要望として連邦政府に届くようになったことが大きい」と分析する。
返還された後には、近隣の日系団体と協力しながら、百周年を目指して「日本文化を普及するための文化センターにしたい」という。中井初代会長の孫にあたる中井会長。「おじちゃんの生前、この話を聞いたことはなかった。自分が運動に関わるようになって初めて知った。不思議な因縁を感じる」。