2006年5月23日(火)
最期の時──。日進月歩の勢いで、医療技術が進歩。それと歩調を合わせるように、人間は長生きをするようになった。かつてはすぐに亡くなっていた病気でも、延命治療によって、ある程度、寿命を延ばすことが可能だといえるかもしれない。回復の見込みのない患者を対象に、「生活の質」を高めようと始められたのが緩和ケアだ。ブラジルは国内全体で、約四十のプログラムしかない。先進諸国に比べて遅れているのが実状だ。駐在員の子として十代でブラジルに渡り、老人科医になった千馬寿夫さん(43、兵庫県出身)らがクリニカス病院で、終末期医療に取り組んでいる。仕事の日々を追った。全九回。
二月××日午後。クリニカス病院に日本人女性が、長男(53)と長女(47)に連れられて姿を見せた。外来で緩和ケアを受けている、患者の一人だ。
佐賀県出身で七十四歳。末期の肺がんを患っている。病気はかなり進行。あばら骨、頚椎(けいつい)、胸椎(きょうつい)に転移している。
見た目に表情が歪んでいるとはっきりと分かるし、顔色も悪い。「初めてここに来た時には、激しい痛みのために話をすることができませんでした」。後日、千馬さんがそう明かしてくれた。
一週間に一度、通院して鎮痛剤を投与。必要とあれば、心理士やソシアル・ワーカーのカウンセリングも受けている。病気の完治を目指して、副作用の強い抗がん剤などを使用しているわけではない。「生活の質」の改善を主な目的にした、全人的なケアだ。
この日は体調が少し良くなったので、取材を受けてくれた。それでも質問に答えるのは辛そう。連れ添いの二人に背中を押されながら、途切れ途切れに言葉が出てきた。
がんだと分かったのは〇五年半ば、日本でのことだ。六人いる子供のうち、五人がデカセギに。本人も後を追うように十年ほど前に訪日して、佐賀県内の姉の自宅で過ごしていた。
「子供たちは、国内に散り散りに暮していた。野菜などを栽培して、収穫物を送ってあげるのが楽しみでねぇ」。そんな安穏な日々が昨年、突然崩れた。
肩に激痛が走ったため、病院にいった。県内の病院では原因がなかなか分からず、主治医が検査の結果を東京に送付。入院から二カ月後に、肺がんであると宣告された。「大した病気もしたことはなかったのに……」。
五九年に渡伯。間もなく、海難事故で夫に先立たれ、賄い婦をしながら六人の子供を育てた。苦難の時代を乗り切り、祖国で余生を楽しんでいる中での発症だった。
日本か、それともブラジルか? ブラジルに残った長女は「私が引き取って、連れて帰る」。本人の兄弟は「医療技術が進んだ日本で、治療を受けたほうがよい」と主張。治療地をめぐって家族内がぎくしゃくした。
「兄弟たちももういい年だし、実の娘ならわがままも言いやすい」と決意。昨年十月に、ブラジルに戻った。とはいえ、帰国後の治療がスムースに進んだわけではなかった。
がん治療の設備が整った病院が見当たらなかったからだ。健康保険にも未加入。新規加入となれば、月々の保険料は想像を超える額になるだろう。そもそも、がん患者を受け付けてくれるのか?
サンパウロ市内の病院を転々とした後、最後に救いを求めたのが千馬さんのグループだった。
長女はクリニカス病院から近い区域に家屋を所有。長男が共に帰国して、長女とともに介護に当たっている。「これまでは、離れ離れの生活が長かった。これを機に、兄弟みんなで母を支えていくことを確認しました」と涙ぐむ。
スタッフは率直に、病気の進行具合などを説明。女性は、必要以上な延命治療を続けるより、痛みを抑えることに重きを置き、「尊厳ある死」を迎えたいと思った。
「婿がミナス・ジェライスでコーヒー園を営んでいる。サンパウロで可能な限りのケアを受け、その後は自然に囲まれて過ごしたいですねぇ」。
しかし、この日から約一カ月後、自宅で呼吸困難に陥った。クリニカス病院の救急に駆け込んだものの、既に手遅れ。不帰の人になった。
(つづく、古杉征己記者)