2006年5月25日(木)
午後三時過ぎ、一行はカストロ文協を出発した。大きなサイロが点在する農地が広がっている。大豆やとうもろこしが収穫された後に残された大地は少し寂しげだが、平らな地平線が美しい。国内に広大な平野は多々あるが、「北海道みたいじゃないか」と例える有坂隆良さんの言葉に納得してしまった。
午後六時過ぎ、ポンタ・グロッサ日伯文化スポーツ協会の会館に着く。会場では「寒いところを来ていただいたので」と、温かいうどんが用意されていた。
日本人が最初にこの地に入ったのは戦前。皇国殖民会社元社長の水野龍が開拓に携わった。高知県からの十家族を組織し、クリチーバからの入植者も迎えたが、開戦による資金不足から苦しんだ。
戦後になり、一九五八年にバタテイロが入植。ジャガイモ栽培は七〇年代前半まで続いたが、大豆が主を占めるようになっていったそうだ。
ポンタ・グロッサで正式に日本人会が創立したのは一九七八年になる。日本人会設立当時は約百三十家族いたが、コチア青年は多い頃でも三十人足らず。「カストロなんかではコチアでまとまって日本人が入ったけどここは違う。それぞれが、違う仕事をするために個人的に来た。だから皆、はたから集まった人なんだ」と、前会長の大越健吾さんはその成り立ちを話す。
その後、サンパウロやクリチーバ、日本へと人が出て行ったそうだ。現在は七十家族の会員がいる。
日本人会の設立と同年、日本語学校も作られた。今、生徒は非日系、社会人を含めて二十人。同学校教員の増井佳子さんは「最近は父兄の意識が変わり、英語を学ばせたいと考える親が増えてきた」と難しさを抱えつつも、JICAボランティアの新しい手法を取り入れ、より効果的な日本語教育を模索していた。
同協会では十八年前に野球部がなくなってしまったが、今はカストロ同様、パークゴルフが人気である。同協会会長の林定雄さんは「去年のパラナ州大会で優勝したんだ」とうれしそう。ナイター設備も整え、涼しくなった夕方からほぼ毎日練習をしているという。
同地では、倉敷やハリマといった日本の進出企業が工場をかまえており、また近くに大学もある。去年の運動会にはパラナ総領事も参加し、二百人が集まった。会館もきれいに作り足した。林さんは「次の世代を確保しなくては」とさらなる会員の獲得を目指している。
「いろんな人との交流がある方がいい」と一行を歓迎してくれた林さんは、様々ある年間行事の中で今年のメインは、八月の「お話会」だという。各地から三百五十人が集まり、童話などが披露される。また、会館わきの桜が花をつけるようになったため、花見の計画もしている。
会場では、カラオケが続いていた。終始和やかだった夕食会は、午後十時すぎ、「ふるさと」を歌って、南雲団長と林会長の挨拶で締めくくられた。
(続く、稲垣英希子記者)
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