2006年5月26日(金)
「フェイラの匂いはきついし、ブラジルの人には失礼ですが、いったいどんなところに来てしまったのだろうと驚いた」。
千馬寿夫さんは七五年三月、日系商社に勤務していた父親に連れられて、初めて来伯した。小学校五年を終えた直後のこと。カンポ・リンポの日本人学校に編入した。初印象は決して、よいものではなかった。
「当時、学校の周辺は野原で、赤土がむきだしになっていた。日本とは全く異なる自然環境だと思いました」。
日常生活は、学校と自宅を往復するだけ。ブラジル人との接点はほとんどなかった。それでも、水泳が好きだったという千馬さんは、父親に頼んでフィットネス・クラブに入れてもらった。
「休日や連休といっても、父のゴルフに付き合ったり、会社の同僚の人と旅行に行くぐらいでした」と振り返る。
日本人学校には高校部がないので、中学三年に進学した時、日本に帰国し、兵庫県内の私立中学に編入した。ここまでは、ありふれた駐在員の子だった。
間もなく、人生を大きく変える〃一大事件〃が起きた。父親がブラジルに残ると言い出して、服飾メーカーに転職。家族を呼び寄せようとしたのだ。
「行くか、行かないかの決断は私に任されました。まだ十代だったでしょう。兄は大学受験を控えていたので、日本に残りましたが」と千馬さん。中学校を卒業後、七九年に再度ブラジルの土を踏んだ。
二回目のブラジル。そこで待っていたのは、厳しい現実だった。まず現地の高校に入学するため、学力検査試験を受けなければならなかった。
まず半年間、家庭教師についてポルトガル語を特訓。それに並行して地理、歴史、公民などの教科を学んだ後、試験に臨んだ。バンデイランテス校への入学許可を得たのは、一年後のことだった。
同校はサンパウロ市内でも屈指の進学校である。が、高校入学が遅れたことは、「落第」にしか思えなかった。もちろん、日本への〃退路〃も絶たれ、帰国子女にもなれなかった。そんな劣等感が、千馬さんを机に向かわせた。
「一~二年は辞書を携えて教室に入った。勉強を手伝ってくれたのは、特に中国・韓国系の準二世たち。同じような苦労をしてきたからでしょう」。
教室でもっとも驚いたのは、「将来なりたい職業は?」との教諭の質問に対して、クラスメイト五十人のうち、四十人近くが「医者」と答えたことだった。
「遺伝子工学」という言葉に引かれて、千馬さんは一旦、生物学の専攻を決意。高校二年で、FUVEST(第一次試験)にパスした。しかし、心が晴れなかった。
父親が息子の将来を懸念して、食品加工業関係者、教師などの知人を招いてくれ、進路についてアドバイスを受けた。考え抜いた末に下した結論は、医師になることだった。
志望校は第一次がサンパウロ大学、第二次がサンパウロ連邦大学、第三次がサンタ・カーザ。そして、サンパウロ大学に現役合格した。競争率八十倍の狭き門だった。
(つづく、古杉征己記者)
■緩和ケア=最先端担う千馬寿夫医師=連載(1)=回復の見込みない患者対象=生活の質を高める