2006年5月30日(火)
「治療に反応しない疾患をもつ、患者に対する積極的で全人的なケアである」と、世界保健機関(WHO)は緩和ケアを定義している。
病気の治療を目的にするのではなく、生活の質(QOL)の向上を目指すもの。(1)身体的(2)心理的(3)社会的(4)宗教的に、患者と家族を支えていく。
医師のほかに看護婦、社会福祉士、理学療法士、薬剤師など様々な分野の医療従事者が関わっている所以だ。
末期症状がみられる時には、惜しみなく疼痛を和らげる姿勢で臨む。誤解を恐れずに書けば、麻薬性鎮痛剤のモルフィネも多用するわけだ。
千馬さんは「モルフィネを使ったからといって、禁断症状が出るわけではありません」と薬の持つマイナス・イメージを否定する。
緩和ケアは当初、末期がんの患者を想定していた。しだいにエイズ、心不全、重度認知症など、回復の見込みがない慢性疾患を含むようになった。
米国では一九八〇年代、八割ががんだった。二〇〇〇年になると、その割合が五五%に減少。ほかの病気が二〇%から四五%に増えている。
「例えばパーキンソンだったら、発症から死亡するまでかなり長い。ある一点で急激に体調が悪化するのではなく、年月とともに衰弱。最後には、緩和ケアを必要とする状態になってしまう」。
医療技術が発展。一昔前では容易に亡くなっていた病気でも、生き長らえるようになったわけだ。一方で病気の後遺症が残ったり、全身を医療器具につながれたりするなど「生活の質」の低下も招いた。
現代の緩和ケアの嚆矢は、元看護婦のシシリー・サーンダース(故人)が一九六七年に創設したセント・クリストファー・ホスピス(ロンドン)。
サーンダースは第二次世界大戦中に、従軍看護婦になり、死を目前にした人々をみていた。戦後に、がん患者も対応。ソーシャル・ワーカー、医師としても活躍した。
高齢化の進行とともに緩和ケアは八〇年代に、北米大陸で広がっていった。米国では現在、二千以上のプログラムが存在しているという。
日本では、静岡県浜松市の聖隷三方原病院や大阪府の淀川キリスト病院がピオネイロ。九〇年代に入って増加をみせた。九七年は約四十施設だったのが、九八年には百四十施設を超えた。
千馬さんは大学二~三年の時に、日本に住む従兄弟がプレゼントしてくれた、エリザベッチ・キュブレル・ロスの「死ぬ瞬間─死にいく人々との対話」を読んで感動。終末期医療を志そうと決意した。
「ほっておくしかないような患者をケア。極限の中で、可能性を見出していくのはすごいと思った」。
大学卒業後の〃下積み時代〃が長かったため、修士を飛び越えて博士課程に進学。論文のテーマに「WHO QOL─brefによる長期在宅酸素治療プログラム利用患者評価の生活の質の評価」を選んだ。
緩和ケアのプログラムは現在でも、国内に四十ほど。大学生だった八〇年代初めには、存在していなっかたといっても言い過ぎではない。「文献を調べることは可能だった。でも実践となると…」と千馬さん。
外国に指導者を求めてスイス、ロンドン、カナダなどの学会に飛んだ。九五年に外来で、回復の見込みがない患者の診察を始めた時、文字通り、ゼロの状態だった。
(つづく、古杉征己記者)
■緩和ケア=最先端担う千馬寿夫医師=連載(1)=回復の見込みない患者対象=生活の質を高める
■緩和ケア=最先端担う千馬寿夫医師=連載(2)=患者は「死」に対し神経質に=チームに求められる冷静、忍耐