2006年6月7日(水)
ブラジル南部、サンタカタリーナ州の西部。リオ・グランデ・ド・スル州と境を接するこの地域には、戦前からドイツ、イタリアなどヨーロッパ系の移民が町を築いてきた。観光の盛んな州東部と違って戦後も長く農業が中心だったが、現在、この地域の諸都市が「Rota de Amizade(友情街道)」と銘打って観光振興を進めている。このほどサンパウロ市の旅行社が企画した視察ツアーに同行する機会を得た。ダムに沈んだ町イターと、オーストリア移民が築いた町トレーゼ・チーリャス。日頃触れる機会の少ない西サンタカタリーナの二都市を紹介する。
◇イター
ほんの五年ほど前に、湖に沈んだ町がある。サンパウロから八百七十キロにある町、イター。イタリア系、ドイツ系移民が中心となって一九二〇年代から築かれた。農畜産業やカシャッサの生産を営んでいた小さな町に変化が訪れるのは、六〇年代末のことだ。
町の上空を盛んにヘリコプターが飛ぶようになった。「戦争がはじまったかたと思ったそうですよ」案内の女性が説明する。実際にはダム候補地の視察だった。
リオ・グランデ・ド・スルと州を分けるウルグアイ川のほとりに位置するイター。七八年になってダム建設が決まったことで、町の運命も決まった。高台に新市が建設されることになった。住民の移動は八六年にはじまったが、最初は移り住む人も少なかったという。
旧市の家は取り壊され、墓は移された。旧市は放棄され、ダムの建設が始まった九六年に、〃新〃イターが開かれた。
九九年から貯水が始まったダム湖は次第に水面を上げ、二〇〇〇年五月、町は水の底に沈んだ。暮らしの中心だった教会だけは、前面の部分が残され、町が沈んだ後も水面に残ることになった。
現在の人口は約七千人。セントロにある環境普及センターにダム建設の歴史が記録されているほか、町には旧市からドイツ系とイタリア系の住民の家が一軒ずつ移築され、今は博物館として当時の暮らしを今に伝えている。
農場体験ツアー、エコツリズモなど観光産業に力を入れるイター。昨年には、町の外れにダム湖をのぞむ温泉リゾート施設がオープンした。
ツアーを案内していた女性は、平日は市の職員として働き、週末だけガイドの仕事をしていた。「旧市には大学も会社もなかった。(町が)沈んだことで、観光が生まれて、こうして仕事をしていられるのよ」と前向きに話していた。
ダムに沈んだ町、イター。教会はいまも、湖の上に静かにたたずんでいる。
◇トレーゼ・チーリャス
ドイツ人やイタリア人が築いた町は多いが、オーストリア人の町となると、耳にする機会が少ない。トレーゼ・チーリャスはその一つだ。
同市はSC州が進める観光ルート「Rota de Amizade(友情街道)」の一つ。周囲にはリンゴで有名なフライブルゴやワイン醸造が盛んなタンガラなどドイツ、イタリア系の諸都市が並ぶ。
同地に入植がはじまったのは一九三三年。オーストリアの農業大臣アンドレアス・ターラーとともに、同国南部のチロル地方から八十三人が移り住んだ。その後、三八年、第二次大戦の開始とともに移住は途絶。ドイツ語は禁止され、移住者の帰国の夢も絶たれた。
戦後は全国七位の牛乳生産で栄えた。現在の人口は五千五百人。「昔はオーストリア人が多かったけど、今はそうでもないですね」と語るのは、同市生まれの二世でガイドのヴェロニカさん。
市内にある第二学年までの学校では今も、ドイツ語が教えられているほか、チロル地方の民族舞踊グループもあり、町のホテルなどで披露している。地ビールの醸造も盛んだ。毎年十月の「チロルフェスト(Tirolfest)」は今年で七十二回を数える。
この町には、今も同州内で唯一のオーストリア総領事館が置かれている。人口の約一割、約五百人が仕事、勉強のため母国に行っているという。「オーストリアで観光業を勉強して、帰ってくる人もいますよ」
ヨーロッパの地方都市を思わせる町並み。同市には新規に家を建てる時に「チロル風」にした場合IPTUを割り引く制度があるという。家々の塀は低い。
セントロの外れにある警察署を通り過ぎる。「ここのカデイアは十五年前にできたんだけど、まだ一度も使っていないんですよ」とヴェロニカさんは笑った。 (松田正生記者)