2006年7月6日(木)
私がボランティアとしてパラグアイ・エンカルナシオン市に来て、もう一年半が経とうとしている。もう今では、この町で毎日仕事をし、買い物をし、時々は友達とご飯を食べたり、お酒を飲んだりする生活が普通で、あと半年後に日本に帰ることが想像できない。 ここはアルゼンチンとの国境の町。国境にはパラナ川が流れており、橋を渡るとアルゼンチン側ポサーダス市だ。この二つの町には、国境がないかのようにみえる。パラグアイ人はアルゼンチンのほうが安いガソリンをいれに行ったり、品揃えの豊富なスーパーマーケットへ買い物に行ったりする。
また、アルゼンチン人はパラグアイのほうが安い衣料品を買いに来たり、レストランに食事に来たりする。
この町の規模は小さいのだが、徒歩圏内に学校、大学、病院、郵便局、各国領事館、スーパー、市場、衣料品店など生活に必要なものが全部そろっているので、とても便利だ。それに治安もとてもいい。日本でイメージする南米とは遠くかけ離れている。ここに住む人は、「パラグアイ中で一番住みやすい町がエンカルナシオンよ」と全員口をそろえる。
また、約五十三カ国の人々が住む移民の町ともいわれる。ヨーロッパ系、アラブ系、アジア系の人々が住み、道を歩いていても色々な顔をした人たちとすれちがう。そして、その移民の町の一構成員である日系人は約百世帯。ほとんどが商店や医者、レストランなどといった自営業者である。
パラグアイに来て驚いたことは、日系人の日本語の流暢さだ。パラグアイへの日本人の移住は戦後が主で、五十周年を迎える移住地が多い。
ブラジルと比べても歴史が浅いためか、未だに綺麗な日本語を話す人がたくさんいる。特に移住地では、日本人同士のつきあいが多いので、日本語のほうが得意な人もたくさんいる。地球の反対側にこんな日本社会があるなんて、想像以上だったので、本当に驚いた。
しかし日本語が流暢でも、高校・大学・就職とパラグアイで生きていくためには、やはりスペイン語が大切だ。町であるエンカルナシオンのスペイン語学校に進学するために、十二歳前後から移住地を出て来ている学生がたくさんいる。 みな出てきたばかりのころは、授業中に先生が話すスペイン語がわからなくて苦労したという話をよく聞く。
あるとき、日本語もスペイン語も使いこなす二世の友達がこんなことを言っていた。
「私は日本語もスペイン語も百パーセント完璧には一生なれないと思っている。だけど、私はこれでよかった。日本語がわからない自分にも、スペイン語がわからない自分にもなりたくない」
この言葉を聞いた時、最初はショックだった。自分の話す言葉が百パーセントになりえないって、一生自分は中途半端だという感覚で生きていくことなんじゃないかと。
しかし、彼女は両方の国の人間であるということに誇りを持っているからこそ、こう言えるのだ。私は二つの国の言葉や文化を学ぶことは、勉強の苦労は二倍だけど、その他の面ではチャンスが二倍以上だと思う。
こちらにない本や漫画は日本語で読み、スペイン語学校では色々な人種の中で生きていく術を身に付け、自分が希望する国で勉強でき、世界で活躍できる人材になれるのだ。
残りの半年も、子供達が両方の国の文化を持つ人間として誇りを持って生きていけるよう、できるだけたくさん日本のことを伝えていきたい。
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【職種】日本語教師
【出身地】福岡県北九州市
【年齢】29歳