第一アリアンサ第十区句会
ブラジルに渡りしばらくして生活が落ち着くと、日本移民たちは移住地に次々と句会を発足させた。句会とは俳句をつくり批評しあう自主的なサークル。そこには句会を指導する知識人が必要だった。
句会は日系社会の連帯感醸成に役立っていた。また邦字新聞などでつながりをもったブラジルの俳句愛好者たちが、俳句誌『ホトトギス』への投稿を通じて、日本や世界各地の俳人たちと交流していた。
昭和十四年六月号『ホトトギス』(高浜虚子主宰・第四十三巻第七號五百二十四號)には、世界各地で開催されたさまざまな「座談會」が掲載されているが、日本移民史の一端をそこに見ることができる。
「座談會」を企画したのは、上海、青島、テニアン、バタビア、スラバヤ、チエテ、サンパウロ地域の日本移民たちであり、奥地のチエテ移住地の座談会にはブラジル俳句振興の中心となっていた佐藤念腹も出席している。
佐藤念腹は座談会のなかで自作の句「棉秋や賄賂の國の吏巡視」を紹介しつつ、俳句の現状について次のように言っている。
「昭和十一年七月の瓢骨忌にブラジル時報で俳句を募集した時には二百五十人の応募があり、翌年の七月同紙俳壇三周年には二百人の応募があった。又ホトトギス雑詠入選者は第四十一巻に三十六人百六十句もあった。しかし今年(昭和十四年)三月にバウル管内の邦人といふ本の著者輪湖氏の依頼でブラジルの俳句を四百句選抜して同書に載せてゐるのですが、吾々の仲間の熱心な者は過去十年に亘って網羅したつもりだが、それをずっと見てゆくと新世帯の割に物故者と帰国者が大へん目につくですね。」(昭和十四年六月号『ホトトギス』)
ブラジルに移民するにあたって、佐藤念腹は師高浜虚子から「畑打って俳諸国拓くべし」という餞の句を贈られている。念腹は「籐寝椅子親しむ南十字星」の句で知られる木村圭石とともに、虚子門下の逸材だった。
新津稚鴎さんは、俳人としても著名であり、佐藤念腹の弟子にあたる。私の好きな新津さんの俳句は「草笛に吹いて悲しき軍歌かな」である。
二〇〇三年夏にブラジルを訪問したとき、新津さんが指導する第一アリアンサ第十区句会句会のメモ(作成年代は不明だが、「春暁の空模糊としてダム蒼く」「ダム底に沈む橋見て夏のバス」とチエテダム建設のことが詠まれているので一九七〇年代以降と思われる)を見せていただいた。日本移民たちがどのような「コロニア俳句」をつくっていたのかを知る上で欠かせない第一級の資料である。そのなかから、いくつかを紹介しよう。
第一アリアンサ第十区句会十月~十二月句会に参加したのは、川畑柳女、小坪広使、小坪悦子、高木樹海、新津みつ江、弓場着離、新津稚鴎、まことの八名である。実名と俳号とが混じっているが、新津稚鴎さんからいただいたメモのまま筆写した。
佐藤念腹の指導するブラジル・ホトトギス派の俳句は花鳥風月を具体的に詠むのが特徴である。そのため念腹の弟子新津稚鴎さんの句会では、サンパウロ州奥地の自然の風物が表現されている。「わが発句の生ある限り念腹忌」という句から、念腹の影響の大きさがわかる。
鶏舎はきし梁に来て鳴くベンテビー
養鶏と鶏糞による集約的農業は日本移民がブラジルに持ち込んだものだ。鶏舎にやってきたのはベンテビーという熱帯の鳥である。短い区のなかに移民の苦難と農民としての誇りが読みとれる。養蚕を詠んだ「おこさまと呼んでうやまふ蚕飼かな」の句もある。
桑の実を食べて故里忘れまじ
日本的しつけの家風茄荷の汁
この二句は郷愁の俳句だ。わかりやすく日本への哀惜を表現している。作者は一世移民だろう。
ベランダの蜂の巣に今日女客
亜熱帯気候のアリアンサでは、家々は玄関入り口を兼ねたベランダを備えている。ベランダには涼むためのいすが置かれている。庇には蜂の巣があるが、自然と共存しているこの地域では目くじらを立てて取り除くことはしない。そんな自分に女性の客が来た。どんな客なのは書いていないが、心弾む作者の様子が伝わってくる。
ゴヤバ苗着き珈琲は抜く事に
コーヒー村果樹に変わりてゴヤバ熟る
コーヒー価格の低迷のなかで、コーヒー園は果樹園に転換させられていった。ゴヤバとは果物のグアバのことである。日本の農業は実直な労働により成り立つ産業というイメージが強いが、ブラジルの農業は投機的な意味合いが濃い。
その他、日本の子どもたちに伝えたい句を書き出してみた。
寒卵馬車で出荷の日も遠く
雨蛙ところかへれば色かわり
カレンダの絵も金髪に夏帽子
墓参して帰郷の意なき父偲ぶ
ユーカリの林をわたる風涼し
屑ゴヤバに牛の乳量ふえしとて
紫の濃き日淡き日ヂャカランダ
水涼し食欲出せと豚冷す
国境の女税吏の半ズボン
豚売りし金ふところにビール飲む
蛍がりする子無き村蛍とぶ
日系のゆえ茄子漬けて三世妻
共稼ぎの妻と寝酒の黒ビール
駆け落ちの夫婦も老ひし茄子漬
歴史教科書以外での記述
ながながと俳句についての拙文を引用したのは、歴史教科書以外にもブラジル日本移民史を語る重要な場があるからである。それは国語教科書であり、地理や公民の教科書である。また、歴史教科書の補助資料として日本の多くの学校で使用されている、『歴史資料集』の存在も無視できない。『歴史資料集』は文部科学省検定済み教科書に比べて自由度が高く、また詳細な記述が可能である。
今年秋には、『歴史資料集』出版社に対して、「移民史の歴史教科書への記載を求める中学校社会科教師の会」として、ブラジル日本移民史についての資料の掲載を要請する文書を送る予定である。その際には、本紙にもぜひ再度の取材をお願いしたい。(おわり)
ブラジル日本移民史を歴史教科書に――運動の経過と課題(下)=京都歴史教育者協議会副会長=本庄豊
2006年9月21日付け