【沖縄発】「沖縄が豊かになったのは、海外の方々のご苦労があればこそです」。事務局次長、照喜名一さんは黒豚の例を出す。
「今、沖縄で豚と言えば白豚。その陰には、移民のみなさまの熱い志があったのです。そのような歴史を、一般県民は忘れてはいけない」。その想いを胸に、昨年から一年がかりで準備を進めてきた。
移民研究センターの論文集『移民研究』創刊号、金城宏幸論文によれば、戦前には約一四万頭もいた黒豚が、すさまじい戦火により終戦時には二千頭まで激減し、五十万県民の食料難に拍車をかけていた。
その惨状を知ったハワイの県系人は「布哇(ハワイ)連合沖縄救済会」を立ち上げ、募金活動やチャリティー公演を展開し、五万ドルを集めた。四八年、豚五五〇頭を購入し、母県にプレゼントした。これが白豚で、わずか三年後には一〇万頭に爆発的に増え、復興の礎となり、今日まで沖縄の食文化を支えている。
同論文には「輸送に関しては、繁殖率の計算式を示し、人々に広く配分する方法まで添えて届けた。これは一時的な食料の提供ではなく、綿密な計画のもとに沖縄が自立するための『釣り竿』を送ったことを意味する」と説明されている。
豆腐製造業から出るオカラや、泡盛製造業の酒粕を豚のエサに、豚の糞は農業に欠かせない肥料となった。沖縄文化を熟知した移民だからできた優れた発想だといわれている。
その物語はミュージカル劇『海から豚がやってきた!!』として大会中の十月十四日に公演される。
これは〇三年に具志川市民芸術劇場を拠点に、まちづくり事業の一環で初公演され、〇四年にはハワイで、〇五年にはロスでも上演された。百周年の時にブラジルでもやってほしいとの声も挙がっている。
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一方、南風原町でも興味深い動きが進んでいる。笠戸丸移民の「南米の博打王・イッパチ」(儀保蒲太)や、その親友で日本人初の歯科医・金城山戸はこの町の出身だ。
大会応援イベントとして、十月十一日と十二日に、ブラジル移民劇『イッパチの夢を賭ける』が那覇で上演される。これは九〇年に町民自らが演じる形で初演され、今回は二回目だ。
片や天才的な賭博師、も一方は日系初の歯科医というエリート街道。竹馬の友が一緒に移民しながら、対照的な道を歩んだ。運命に翻弄されながら波乱に満ちた数奇な人生。笠戸丸移民の中でも格別な物語を紡ぎ出している。
この演劇を〇八年の百周年に合わせて、サンパウロやカンポ・グランジなど沖縄系子孫の集住地を中心に三回公演をすべく準備をしているという。
公演実行委員会の一人、大城和喜さんは「十人ほどの主だった役者を沖縄から送り、残りの配役は現地調達という形でできないかと考えています」という。すでに関係団体に支援の申し出をした。
移民史に残る感動的な説話を通して、県系人と県人が絆意識を共有しつつある。
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南風原文化センターの移民展示には「送金」と書かれたパネルがあり、興味深い数字が並んでいる。
ブラジル移民送り出しの最盛期だった昭和八年(三三年)、当時の県予算(五三二万円)の約四割に匹敵する金額(約二〇八万円)が移民から送金されていた。現在の価値に単純計算すれば一五〇〇億円にもなる。
当時の沖縄での日当がわずか五〇銭だったとあり、送金された金が地元経済や留守家族にとっていかに大きかったかが分かる。
〇三年現在で、デカセギのブラジル送金は年間約二二億ドル(約二五〇〇億円)で、ブラジルの対日輸出額にほぼ匹敵する金額を記録している。
国連の統計によれば、世界の移民数は〇〇年の一億七五〇〇万人から、〇六年の一億九一〇〇万人に増加した。世界人口の三%、三三人に一人が移住者という未曾有の〃新移民時代〃を迎えている。
かつて日本も国策として移民を送り出した時代もあった。移民たちの子孫はデカセギとして日本に還流する一方、現地にとどまって活躍している人材も多い。
〃新移民時代〃においては、仲宗根ロバートさんの言うように華僑やユダヤ人、インド人らの世界ネットワークにならった、日本と日系人の「新しい絆」の見直しが始まるかもしれない。
そのような〃日僑〃が可能であるのなら、琉僑の試みは大いに参考になる興味深いものとなるだろう。
(終わり、深沢正雪記者)
〃琉僑〃=日本との新しい関わり方=世界ウチナーンチュ大会が目指すもの《第2回》=世界17カ国の県系人=ビジネスの関係を構築
〃琉僑〃=日本との新しい関わり方=世界ウチナーンチュ大会が目指すもの《第3回》=琉大に研究センター設立=移民のデータベース構築
〃琉僑〃=日本との新しい関わり方=世界ウチナーンチュ大会が目指すもの《第4回》=南風原町=「移民は郷土の誇り」=続々と町史に編纂
〃琉僑〃=日本との新しい関わり方=世界ウチナーンチュ大会が目指すもの《第5回》=3本柱で次世代育成=海外と県内の両側で