九月二十四日午後一時半。ふるさと巡り一行はイグアスー日本人会の歓迎昼食会に出席した。
パラグアイ・イグアスー移住地は、JICA(国際協力事業団)の前身である日本海外移住振興株式会社が一九六一年、調査開発を目的に、約八万七千ヘクタールの土地を購入したのがはじまり。
最初の十四家族を端緒に、現在では非日系人を含めて約九千二百人が生活する。そのうち約九百人が日系人で、高知や北海道、岩手県の出身者が多く、一世と二世が九五%をしめる。
同会は、一九六七年に発足した「イグアスー自治会」を七八年に現在の名前に変えたもの。八〇年には社団法人として認可されている。
会員は百八十九人(〇六年三月現在)。ブラジルの国境とも隣接するため、前日に訪れたイグアスー日伯文化体育協会との交流も盛んだ。
「ドンドンドン、エイ」――。同会婦人部の手製の料理でお腹がいっぱいになったころ、太鼓と笛の音色が会場に響きわたった。地元の和太鼓グループ「鼓太郎」の歓迎演奏だ。舞うように太鼓を叩く若者たちに、会場からは大きな拍手がおくられた。
同グループは〇一年の日本人会創立四十周年を機に結成された。十代の二、三世の若者が中心で、ブラジルやアルゼンチンなどで公演するほどの腕前だ。
代表の澤崎琢磨さん(33)は太鼓指導をするため、弟と一緒に日本からこの地に移り住んだ。現在は子ども達に太鼓を教えるかたわら、会館近くにある太鼓工房で働く。
澤崎さんによれば、ここで作られる太鼓は鋲を除いて完全パラグアイ産。カナフィートやペローバなどの当地原産の木をつかっている。その音色は日本から注文が入るほどで、いわば本場から〃太鼓判〃を捺されている。
昼食後、一行は工房を見学した。増田耕一さん(70)は、丹念に掘り込まれた大木を覗き込みながら、「玄人(くろうと)の仕事だね」と、関心深げに漏らしていた。
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地平線まで延々と続く小麦畑。夕焼け空にまっすぐ伸びる一本道をバスは黙々と走り続けた。
午後七時過ぎ、エンカルナシオン日本人会との夕食会場である日本食レストラン「広島」に到着。辺りはすっかり暗くなっていた。
「パラグアイの真珠」と呼ばれるエンカルナシオンはイタプア県の中心都市。アルゼンチンとの国境にも近く、肥沃な大地が広がるため、日本人移住者の七〇%がこの地域に集住する。
日本人会が発足したのは一九六一年。チャベス移住地から、商工業を営むために転入してきた人たちがはじまりで、同市には現在、百六十世帯、五百人の日系人が生活する。
はじめに、同日本人会の小田俊春会長(パラグアイ日本人会連合会会長)があいさつ。一行への歓迎の言葉を述べた上で入植当時の話を振り返り、「移住は戦い。住めばそこにはそれぞれの戦いがある」と力説。パラグアイの国民に親日派が多いのは各移住者の努力の末と話した。
一昨年からこの地に暮す大前誠之助在エンカルナシオン駐在官事務所参事官兼領事も歓迎の言葉。大前さんはブラジルで二十二年間にわたり領事を務めた経験を持ち、「パラグアイの日系社会は小規模ながらも非常に充実している」と述べた。
乾杯後、日本食を囲んで歓談。同日本人会の会員、高橋次夫さんの提案で、ふるさと巡りに二十二回参加する和田一男さん(82)がこれまでの思い出を語ったほか、同会の会員もそれぞれの移住体験を話した。
宴は夜十時過ぎまで続き、交流を深めあった。
(つづく、池田泰久記者)
県連「ふるさと巡り」=パラグァイ、アルゼンチン、ブラジル=3カ国走破=連載(1)=まずイグアスーの滝へ=至便の交通網、今昔の感
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2006年10月17日付け