「やっぱりブラジルがいいわ」――。パラグアイからアルゼンチンに入り、イエズス会の教化部落跡を見学した一行は、九月二十六日午後六時、南大河州のサンミゲル市に到着。ホテルでカフェを飲む一行には、ほっとした表情がみえる。「家に帰ってきた」といった感じだ。
翌日午前に日本二十六聖人の三人を祀るために建設されたサントアリオ・デ・カラオ教会を訪れた後、サン・ミゲル・ダス・ミッソンエス遺跡を見学。手作りの土産を購入し、東に約五百キロ離れた州都ポルト・アレグレへ向かった。
市内のホテルに到着したのは午後八時。休む間もなく南日伯援護協会会員との夕食会に参加した。平日の夜ながら、二十人近い会員が温かく迎えてくれ、笑顔がこぼれる。
ポルト・アレグレは南伯の中心都市。ヨーロッパ系の移民が多く、住宅もヨーロッパ調だ。人口約百三十万人。パトス湖を通じて、大西洋とも連絡する港町として発展した。
同州への日本人入植は三六年、海外工業株式会社(海興)によりおこなわれている。十八の日系家族がこの地に入植したが、四十五年に国境百五十キロ以内での外国人土地所有を制限する法が発令されたため、同州初の邦人植民地は形成されなかった。
戦後、五六年に星子直孝氏の呼び寄せによって、公募移民としては初となる二十三人の日本人青年が入植。今年八月に移住五十周年を迎え、盛大に式典が開かれた。
六七年ごろには、同市から五十キロ離れたところにイボチ移住地ができた。国際協力事業団(JICA)の土地融資を受け、国内転住組の農業者が中心となって、二十六戸が集団で独立したのがはじまり。同会の鈴木貞男会長もここへ入植した。
鈴木会長の話によれば、同会は南大河州とサンタ・カタリーナ州にある二十八の日系団体の連合会組織で、南伯では最も大きい。両州あわせての日系人口は約七千人と言われており、そのうち約二千人が日本国籍者。鹿児島や熊本県の出身者が多く、同県人会の支部もある。
会の活動としては会員向けの広報機関紙を月に一度発行しているほかに、医師が休みとなる毎年十二月から一月にかけて、二十八の移住地を中心に巡回診療をおこなっている。総移動距離は毎回六千キロを越えるそうだ。
この巡回診療に今年、日本政府の「草の根無償資金」の援助をうけて新しい巡回診療車が導入された。以前のバスは十年間使用し老朽化が目立っていたが、この診療車には「クーラーも付いて快適」と喜ぶ。
鈴木会長も同診療班に毎年同行しており、普段会えない地方の会員との情報交換を大事にしている。最近は奥地の日系移住地を訪れると「家族間の関係が断絶している」という話を良く耳にするそうだ。
というのも、同州では二世の大学進学率が高く、卒業後に都市部で就職する人が多いこと加えて、日系人の「四人に一人がデカセギ」にいっている状況が背景にあるからだ。「少しでもいい生活を子ども達にさせようと自分達が望んだことですが…」と話す言葉も少し寂しそうだ。「これも日系社会の現実ですね」。
出稼ぎ帰りの人がブラジルの社会に適応できなくなって帰ってくることも多く「今後はこういう人たちのサポートも必要です」とも語っていた。
十時ごろ夕食会は閉会。同会会員との別れ際、鈴木会長は「次の世代にこのコミュニティー(日系社会)をうまく継承していきたい」と話した。
(つづく、池田泰久記者)
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