2006年11月7日付け
パラグアイ日本移民七十周年を記念して一日に訪問された秋篠宮さまは二日午前、同国最初の日本人移住地、ラ・コルメナを訪れ、高齢者などと会話され、「いつ頃来られたのですか」などと気軽に歓談し、ねぎらいの言葉をかけた。当日は市条例がだされて学校は臨時休校に。コルメナ公民館前の沿道にはパラグアイ人生徒約二百人以上が両国の小旗を持って参集し、ご到着を一時間以上も前から待ちかまえていた。
ラ・コルメナはアスンシオンの南東百五十キロ地点にあり、同国では唯一の戦前移住地。ブラジル拓殖組合が手がけ、宮坂国人らが乗り込んで造成したとあって、ブラジルとも縁が深い。
午前十時半、秋篠宮さまの乗った車を真ん中にして隊列を組んだ一団が到着。
公民館の前庭には、同日本人文化協会の千葉玄治郎会長と、宮本浩一エドワルド市長代理(三世)が出迎えた。
移住者が望郷の念をつのらせ「パラグアイの富士山」と愛称をつけて呼び慣わした近隣にある山、通称〃コルメナ富士〃の絵が背景に書かれた舞台の上、秋篠宮さまは席につかれ、両国国歌が演奏された。
宮本市長代理は緊張した面持ちで、「殿下のご訪問は、二つの異なる文化が力を合わせて発展してきたこの地に、新しい歴史を刻むもの」と歓迎のあいさつをした。
次に千葉会長は移住地の歴史を振り返り、三六年の創立以来、百三十八家族、八百四十四人が入植し、現在のこっているのは三百五十七人と説明した。市人口の六%が日系人だ。四八年に農協が発足、五六年に同文協が設立され、十四年前には日本政府からモデル農村プロジェクトとして支援を受け、「小規模ながらも生活は安定してきている」と報告し、「天皇皇后両陛下にもよろしくお伝えください」としめた。
これに対し、秋篠宮さまは「日本人の入植当時、ラ・コルメナは一面原始林に覆われ、移住者の方々には筆舌に尽くせないほどのご苦労があったと伺っております。志半ばにして逝去された方も少なくなく、ここに謹んでご冥福をお祈りしたいと思います」とのべられた。
さらに「移住者の方々は、勤勉さや相互扶助、不屈の精神をもってあらゆる困難を乗り越え、今日の日系社会の基盤を築かれただけではなく、主として農業分野を通じて、パラグアイの経済発展に大きな貢献をしてこられました」とのお言葉を送った。
会場に集まった約百人の地元日系人は大きな拍手でこれに応え、宮本市長代理は記念プレートを贈った。
「ラ・コルメナ『蜜の里』」と書かれたハッピを着た日本語学校生徒五十九人は、約二カ月かけて練習してきた「みちのくヨサコイ乱舞」を元気に披露。殿下は楽しそうに観覧された。
秋篠宮さまは高齢者約十人とご懇談され、会館裏手にある宮坂国人公園内の慰霊碑にご献花、記念プレートを除幕した。次に日系人に深い縁のある故ミランダ女史像をご視察された。
午後はアスンシオン日本人学校をご視察し、生徒代表から花束を贈呈された。
気軽に高齢者とご歓談
ブラジルからの転住者も
「黒石清作のブラジル時報読んでましたよ」。三六年、最初の入植者十家族の生き残り、飯原善広さん(90、東京都出身)は懐かしそうに語った。
「殿下から、なにをやっているのですかと聞かれたので、ゲートボールをやってますと答えたら、ニッコリされました」。
渡伯は三二年。モジアナ線フランカ近くに入植した。ブラ拓がブラジル時報に出したパラグアイ転住を進める広告を見て、決意したという。「ブラジルでは自分の土地を持つのは難しいと思ったから」と動機を説明した。ラ・コルメナではずっと綿作一筋だった。
「私がこっちにきて翌月に、日本から第一回入植者が来た。僕らは〃番外〃ですよ」。初期移民らしく豪快に笑い飛ばした。
その第一回移民、後藤喜代江さん(80、山梨)は殿下に「いつ頃来られたのですか」と聞かれた。
三六年四月に神戸港を出航した十一家族は、七月十八日に亜国ブエノスアイレスへ。そこからラプラタ川を川船で一週間かかってアスンシオン入り。さらに鉄道でイビチビ駅まで。「駅ったって、ただのカンポ(野原)ですよ。すごいところに来たって、びっくりしました」。
そこから四頭立ての牛車で一日かかって到着した。当時は十歳。「まるっきり山の中。ほんとひどいとこへきたもんだって思いましたよ」と笑う。
鈴木八しまさん(72、長野)は「日本はどこですか」と尋ねられ、「長野県諏訪市です」と答えた。三八年、まだ二歳だった。殿下の印象を問うと「ほんとに物静かで、上品なお方だと思いました」と感心したように何度もうなずいた。