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第一昭和植民地―――懐かしいあの時代=小学校の同窓生ら集う=今みんな70代に=「親が勝組だったので日本語しか学ばなかった」

2006年12月8日付け

 今はなき植民地を思い出して――パウリスタ延長線上に作られた第一昭和植民地の同窓会「昭和村郷土会」が、去る十一月二十日、老人クラブ連合会センターで開催された。約三十五人が集い、昔話に花を咲かせた。
 同植民地は、一九二八年にパウリスタ延長線上に開かれた。三十二家族百六十人が入植。「ここはほかの植民地と違って、別々のところからの人が集まってできたところ。土地を買って入ったからコロノはいなかったの」と、中田幸子さん(77)は移住地の成り立ちを話す。
 マリリアから東北に二十一キロ。戦前の最盛期には百五十家族、約六百五十人が昭和村で暮らした。
 「コーヒーをやってましたよ」。椋野美枝子さん(73)は「うちは養蚕をしてたんです」。第一昭和植民地はコーヒーと養蚕、第二は養蚕が中心で、第三は放牧が行われていたという。
 野菜はそれぞれが家で食べる分を作っていた。「余った分はとなりの植民地まで売りに行ってたわよね」と、水野タミ子さん(79)も話しに加わる。荷車を押して第二植民地を歩いたそうだ。
 「植民地にはブラジル学校があってオランダっていう先生がいたの。生徒は、みんな日本人だったから日本語で話すでしょ。先生、可哀想だったわ」「隠れて『オランダはおらんだ~?』って呼んで遊んだものよ」。昔のいたずら話に笑いが絶えなかった。
 会場に集ったほとんどが昭和小学校で学んだ同窓生たち。『マリリア植民三十年誌』によれば、同地は「図書館を設けて幾百の図書を蔵し、修養園支部として其の統制下に精神運動に精進」していたそうだ。
 岡本正三さん(77)は三七年に七歳で昭和植民地に入った。「修養団は、月に一回、はちまきをまいて集まった青年に講習をしてました。親が勝ち組だったこともあって、私は日本語しか勉強しませんでしたね」。一九三八年撮影の子供たちの集合写真があった。写真には「皇軍慰問袋発送記念 昭和植民地小学校早起会 ブラジルサンパウロ州マリリヤ驛」としるされている。よき時代、祖国愛の発露(心の中のことが表面にあらわれ出ること)であった。
 資料によれば、同植民地は、五九年には二十九家族まで減った。戦後の抗争を嫌がって出た人もいるというし、「土地が衰えたから」と岡本さんは話す。
 七〇年代になって、この郷土会が始まった。「多いときには六十人近くいたんだけどね」と岡本さん。実際に植民地跡を訪れたこともある。
 当時小学生だった面々も多くが七十代後半。参加者は毎年減っている。「また来年もね」と一年後の再会を約束する姿が印象的だった。
 会場ではカラオケ、記念撮影、ビンゴとにぎやかな時間が続き、持参された小学校の集合写真を覗き込んだ面々は「変わってないねー」と懐かしそうにつぶやいていた。