2007年1月1日付け
「私は上塚先生の足元でそだったんです」――。移民の父、上塚周平の指導によってつくられたサンパウロ州ノロエステ線にある上塚植民地(現プロミッソン市)。移民のふるさととも言えるこの地に、亡き上塚から薫陶を受けて育った元気な〃日本人〃二世がいる。安永忠邦さん、八十五歳だ。五世も生まれる古いファミリーだが、今も頑固に家庭内では日本語で通す。リンスの入植九十周年記念式典会場で、この日に合わせて会館横に造られた日本庭園を眺めながら、忠邦さんは上塚との思い出をまるで昨日のことのように思い起こした。
熊本県出身の両親は一九一四年、ブラジルへやってきた。モジアナ耕地に入植した後、上塚の募集に応えて一八年にプロミッソンへ移住、その三年後に忠邦さんは生まれた。十一人兄弟の三番目として育った。
当時、上塚は小屋のような粗末な家に住んでいた。そこで入植者たちが「十周年の記念に新しい家を建てよう」と相談。すると上塚は熊本弁で「あんたどん、わしが家ば建てたちゃ、わしゃ入らんばナ。カネあれば、十周年記念塔を建てたらどうじゃナ」。そう言った。
また移住地内に暮す身重の女性が井戸で水を汲んでいたときのことだ。それを見た上塚はすぐさま夫のもとへ駆けつけ一喝。「なんとかしろ!」。移住地内で病気になった人がいれば、上塚はすぐに飛んでいった。
忠邦さんは兄弟三人といっしょに上塚宅の庭先に遊びによくいった。上塚はこの三人がやってくるのが遠目で分かると、手伝いの女性に「安永んとこの三勇士がきたぞ!」といって、イモを蒸させ、ご馳走してくれた。
「先生は移民のことをいつも考えてくれてたんです」――。優しくも厳しく移民たちの生活を見守る上塚を子ども達は、〃事務所のおじさん〃と親しみを込めて呼んでいた。
上塚は晩年、体力も衰えリンス市内の病院に入院していた。ある日、日本人の集まりでどうしても外出しなくてはいけない用事があり、〃外人〃と一緒にトラックの荷台に乗って向かった。日本人は上塚一人だけだった。
その日は雨。道はぬかるみ、急な坂道でトラックは立ち往生した。不満を垂らしながら次々と乗客が降り、トラックを押しはじめた。「先生はここで自分が降りなかったら日本人の顔を汚すと思ったのでしょう」。上塚も病体に鞭を打って車を押した。
これがきっかけとなって病状が悪化、再入院となった。同氏が亡くなる一週間前、忠邦さんは学校の教師といっしょに入院先を見舞いに訪れた。上塚は忠邦さんの手をぎゅっと握って何度も語った。「がんばれよ、がんばれよ」と――。
地面を忠邦さんの大粒の涙が濡らした。「あの時は、何を頑張ればいいのかよくわかりませんでしたけど、今思えば、この植民地のために尽くして欲しいということだったと思います」。忠邦さんが老翁と交わした最後の言葉だった。十四歳の時だった。
第二次世界大戦中は、二世として兵役についた。「マット・グロッソ州にあった大本営に徴兵されたんです」。軍務から戻ると青年会の教育部長になった。二十三歳の時だった。
当時のブラジルでは日本人は敵性国民として日本語での教育や集会が禁止された。二十二校あった日本語学校は次々に閉鎖された。政府の監視員の厳しい目が光るなか、青年たちは村の空家にこっそりと日本語教室を開校した。
その中で「せめてマンガと雑誌ぐらいは読めるようにしよう」と決意。忠邦さんらは、ひらがな以外にも四大節の歌(四方拝・紀元節・天長節・明治節)を子ども達に教え、〃日本の心〃を伝えていった。
現在、忠邦さんは曾孫の雪兎ちゃんを含め、四世代ひとつ屋根の下で暮している。子ども八人のうち長男の和教さんは現職のリンス慈善文化協会の会長。次男の修道さん、三男の邦義さんもそれぞれマリンガとブラジリアの文化協会で会長を務めた。
安永一家の妻はみんな一世。忠邦さんの奥さんも、和教さんの奥さんも、〇六年九月に日本から戻ってきたばかりの孫娘の和恵さんも一世と結婚した。和恵さんは帰伯早々、リンス入植九十年史の編纂を手伝った。
「私に話しかける家族はみんな日本語ですよ」―。安永家では基本的にすべて日本語をつかう。家族の名前には一人もブラジル式の名前がついていない。和恵さんの胸の中ですやすやと眠っていた五世の雪兎ちゃんも同様だ。
たくさんの思い出話を語ってくれた忠邦さんは「私の家には〃思い出帳〃があるんです」と穏やかに続けた。自宅を訪れた客人にひとこと、今日の思い出を書いてもらうものだ。「これがとてもいい思い出になるんです。今日も会場にもってくればよかった」。
別れの時、忠邦さんは記者の目をしっかりと見つめて一言。「私は古いのかな。二世ですが日本人の気持ちが強いんです」――。そう言って、ぎゅっと強く手を握ってくれた。