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日本文化の継承戦略とは―――百周年以後の日系社会はどうあるべきか―――□「樹海」拡大版□=「移住は壮大な実験」=12世誕生への心構え

2007年1月1日付け

 四百年前の山田長政の試みは歴史の泡と消え、のちの世になんの痕跡も残さなかった。どうしたらブラジルでは、その二の舞を演じずにすむのか──。ニッケイ新聞は「日本人にとって移住は、日本国開闢以来の文化継承の壮大な実験だ」との観点から、日系社会の日々の変貌と取り組みの記録を残すと同時に、その分析を心がけてきた。百年後の学者が、邦字紙のページから日系社会の息吹が感じられればと常々意識している。移民百年という記念すべき節目を来年にひかえ、今までの経験を体系化し、次の百周年に向けた日本文化継承戦略を練る好機だと考え、一つの叩き台として次のような提案をしてみたい。
 外国で平和的に日本文化を継承するという移住事業は、なんのマニュアルもない中で、一般市民である日本移民の手によって取り組まれ、この百年間、必死に模索されてきた。
 戦乱続いた欧州では、時には、数十年ごとに国が変わる生活を国境付近の住民は強いられてきた。国が変わっても自分たち共同体の文化を継承できるような独自の文化風習を作ることは前提条件だった。
 言いかえれば、それを民族のDNAに組み込んだところが、同化・吸収されずに生き残ってきた。
 ところが、第二次大戦後に進駐軍に占領されたこと以外に、外国から支配された経験のない日本人にとって、日本文化は積極的に継承戦略をたてなくても続いていくものだと考えられていた。
 日本は二百五十年もの鎖国を行い、閉鎖地域で独自な文化の醸成を行ってきた。明治以降、はじめて本格的に国外移住するようになった日本人にとって、固有領土外で世代を超えて文化を継承させることは念頭に置いていなかった。
 おそらく今の日本人にも、在外の日本人が抱く継承への切迫感と困難さは分かるまい。
 それゆえ、祖国を離れて文化を継承し、同時に移住先住民に日本文化を普及するということは、困難で手間のかかる事業の割に、日本でその功績が大きく認められることもない地味な作業でもある。
 日本文化を継承することと、よきブラジル市民であることは矛盾しない。むしろ、この国の文化の多様性を維持し強めるためには、各民族系社会が積極的に継承する努力が必要だといえよう。
 わずか百年未満で六世が生まれた。次の一世紀の間に、十一世、十二世が誕生するだろう。次の時代に向けて意識すべきことを、まとめてみた。

(1)他民族系の戦略
 体系だった継承戦略を持たない日系に比べ、戦争によって時に他民族を支配し、時に追われる歴史を連綿と続けてきたドイツ系、ユダヤ系、アラブ系などは数百年の歴史的積み重ねがある。
 彼らの民族系施設を取材する中で、彼らの文化継承戦略の核となっているのは「宗教」であると感じた。加えて「民族系学校」「スポーツクラブ」を複合的に用いて、自然に同民族系同士が親密な幼年期を過ごせるような工夫がなされている。
 南部三州に入植した欧州系移民は、最初に、移住地の真ん中に教会を作った。移住地に子どもが増えると、教会付属の学校が作られ、その生徒らが楽しみながら身体を鍛え、自然と団体活動に慣れるようにスポーツクラブ建設へと自然な筋道がひかれていた。
 地域共同体のみんながこの三施設を中心に、人生をその中で循環させられるサイクルを作って、次世代を育成する仕組みとなっている。
 なぜ「宗教」がすべての基礎になっているかといえば、同じ世界観や価値観を共有することが文化継承の土台となるからだ。強固な世界観の共有というしっかりした地盤なくして、高い城は建てられない。
 大航海時代に先兵となってアジアやアフリカ、南米に向かったのは、軍隊ではなく、イエズス会のような布教組織だった。なぜキリスト教を広めたかと言えば、まず、その地域の世界観、価値観を西洋に合わせる修正作業を通して、ローマ法王を世界の中心とする精神的な支配体制が準備できるからだ。
 植民地を世界中に持っていた欧米列強は、国内他民族や外国の市民に影響を与え、操るいろいろな技術を持っている。蓄積された経験は、当然、自国民が外国に植民もしくは移住するときにも活用されたに違いない。

(2)性格形成期の重要性
 「三つ子の魂、百までも」とは良くいったもので、これ以上の継承戦略はない。
 日系としてのアイデンティティを形成する上で、幼児期に何を教えるか、どう教えるか、という点に勝る重要なことはない。
 特に十歳ぐらいまでの幼少年期に、日本的な考え方を体現した活動に親しむことで、無意識のうちに親日的な価値観を醸成する。
 特にバイリンガル(二言語)、バイカルチャー(二文化)をもった人格を形成するには、そのような幼年期は不可欠だろう。
 ただし、日本語をしゃべらなくてはいけない──と強引に教えられる時代はもう過ぎてしまった。この年代の子どもを持つ親の大半はすでに三~五世であり、親自身が家庭で日本を使わない世代だからだ。
 日本語が重要なのはいうまでもないが、あまりに理想論では誰もついていけない。現実的な継承方法、敷居の高い日本語より、日本文化や移民の歴史にまず興味を持たせることを考えなくてはならない。
 最も大事なのは、子どもに物心が付いたとき、周りに日系人の同年代がたくさんいて、共通の価値観や意識を自然に共有するようになっていることだ。
 幼い頃から様々な場面で、日系同士が中心になって親密な時間を過ごす体験が、自然な日系アイデンティティを醸成する。
 だが、全員が日系人である必要はない。核となる集団が日系であり、その日系的な雰囲気を広める形で全体が形成されていることが肝要だ。
 地方文協などでは、日本語学校の存続が問題になっているところが多い。学校の存在はこのように、日本語の学習レベルでは図れない重要な役割を負っている。
 赤字経営続きで、存続困難だとしても可能な限り続けて、子どもたちが自然に日系アイデンティティを醸成する場を残してほしい。

(3)地方こそが要
 大都市という環境は、若者にとってあまりに刺激が多すぎて、日系的な活動への関心が持続できず、容易に同化が進みやすい。日系人口がある程度集中した地方都市の方が、長い目で見て、安定的に文化を継承する条件を備えている。
 サンパウロ人文科学研究所の宮尾進顧問によれば、ドイツ系などは南部諸州に今も集団地を残し、親が五世の時代になっても家庭内でドイツ語を普通に使う地域があるという。閉鎖的な環境は、文化継承に適している。
 十年ほど前に佐賀県の陶器テーマパークに関して、ドイツの本場マイセンから民族舞踊団を呼ぶと高くつくので、南大河州のドイツ系集団地から連れて行って公演をさせているという報道があった。本国には滅びてしまった民族芸能まで保存されている、とは有名な話だ。
 ドイツ系のマルチウス・スターデン移民研究所で聞いたが、南部諸州では本国では使わなくなった古いドイツ語を今も使っているという。
 地方の集団地なら日常的にドイツ語を使っても目立たないし、同系同士の結婚も自然に行われる。ドイツから来たばかりという若い研究員は「南部州のドイツ系は頑固で困りものだわ」といっていたが、日系からすればうらやましい面もある。
 文化継承に理想的な条件を備えているのは、なんといっても北パラナが筆頭だろう。続いてノロエステ線、パウリスタ線、アララクアラ線、聖南西地区などサンパウロ州地方部、さらにリオや北伯ベレンなども相当規模の日系人が団結しており、このような地域こそが最終的に独自の日系文化を形成し、継承していくのではと推測される。

(4)日系文化の誕生
 ここ数年の〃日系文化〃の発信地は、北パラナといっても過言ではない。
 最初にロンドリーナ市のグルッポ・サンセイによるカラオケ・ミュージカルを見たときには、その発想の大胆さに驚かされた。元々はカラオケ教室の仲間がはじめた活動だけに、得意なカラオケを歌いながら踊り、笠戸丸からの移民の歴史をその時代の代表的な歌にかぶせて演じるものだった。
 そして、〇五年七月に行われた第三回ブラジルYOSAKOIソーラン大会でもグルッポ・サンセイが初出場で総合優勝を決めた。加えて、今年の第三回全ブラジル太鼓選手権大会でもジュニアの部でロンドリーナの一心太鼓が優勝した。
 北パラナ勢の若者による芸能部門の全国制覇、総なめといったおもむきでないか。
 北パラナでは次世代が育っているようにみえる。彼らが発信する日系文化は、全伯の次世代に影響力を持つようになるだろう。
 その筆頭は、なんといっても「マツリダンス」だ。二〇〇一年頃にマリンガ文協青年部が発明したこの新しい芸能は、日本の流行を日系的に解釈し直して生み出した新しい文化といえる。
 盆踊りは一世が中心になって伝え、炭坑節やら東京音頭やら日本と同じように、和太鼓をのせたやぐらを中心に、何重にも人の輪を作って踊るものだ。ところが、若者は炭坑節だけでは満足しない。
 彼らが好んでカラオケで歌うような日本の最新流行歌にあわせて、ダンスを始めた。これが「マツリダンス」だ。和太鼓をのせたやぐらを中心にぐるぐる回るのは一緒だが、音楽が最新流行歌で振り付けが西洋風の「ダンス」である。
 このような若者隆盛の原因をたどると、その一因は九二年にたどり着く。
 その年、SBTテレビ局の番組『ナッソンイス・ウニーダス』の中で、スペイン系、ドイツ系、ギリシャ系、韓国系など十六カ国からの移民系団体代表と一年かけて競い、マリンガ文協が優勝を飾った。内容はスポーツ、文化、クイズなどで点数をあらそうものだ。
 当時、二十五万ドルのバスを賞品としてもらい話題をさらった。その時の会長は、三世の安永修道さんで、当時まだ四十歳。現パラナ州議の西森弘志さん(二世)は若手の副会長だった。
 安永さんは「一世の高齢者からは、負けて恥をさらすのは良くないと反対する声もありましたが、日本文化をテレビでブラジル社会に紹介できるので、若者が中心になってがんばりました」と当時の勢いを振り返る。
 一年がかりで他民族系団体と競いながら勉強をし、テレビ出演を続けるプロセスを通じて、日系人としての集団アイデンティティを強めたに違いない。
 他民族と比較しても引けをとらないという、強い自信が芽生えただろう。
 それから十四年。その時の幼児が、現在の青年部を支えている。新しい世代はもっと大輪の花を咲かせつつあるのかもしれない。

(5)サンパウロ市は保守的
 日系人の半数近く、五十万人以上がいると推測される大サンパウロ圏は、なぜ継承に適していないのか。
 正確に言えば、適していないのではなく、日系人が多すぎてプロセスが一番遅れるとも考えられる。
 あまりにも「正統」にこだわりすぎて、発想が伝統的なものに執着してしまい、保守的で、パラナのような自由さが失われている。
 というのは、現代日本の影響をもろに受けやすいのがサンパウロだからだ。
 日本文化を二世が取り入れて「日系文化」に変容させるには、いったんバラバラに分解して、ブラジル的に解釈して再構成する自由さが必要だ。
 ところが、サンパウロ市はあまりに濃密に母国と接触があり、「本物でない」「伝統的でない」ものを嫌い、変化を受入れにくい土壌が育ってしまっている。
 日本と同じものが良いものであるとし、勝手に解釈し直したものは下等なイメージを持ちやすい。
 その土台となっているのは、サンパウロ市周辺に集まっている戦後移民の多さだろう。
 加えて進出日本企業の本社、ブラジル日本文化協会、サンパウロ日伯援護協会、ブラジル日本商工会議所、各県人会やブラジル日本都道府県人会連合会などの中央組織が集中しており、日本からの賓客も多く、祖国との接触が多い。
 地方部のように、日本的な特性を残しつつブラジル文化に溶け込んだ〃日系文化〃を形成するより、純日本風へのこだわりが強い。
 どんなに日本文化が好きな二世でも、日本語が苦手だとサンパウロでは、やりづらいという。「本物の日本人は一世」という雰囲気が漂っている。
 その点、地方部の方が、一世から二世への流れはスムーズにいき、団結している場合が多いように思う。
 それに加えサンパウロ市では、一世と同年代(六十~七十歳)の二世との確執が生まれ、団結に至るまでに時間がかかりそうだ。現在の百周年記念協会の進展具合からは、そのようなイメージが類推される。
 それに、サンパウロ市周辺で戦中戦後に多感な思春期を過ごした二世の性格を決定づけているのは勝ち負け紛争だ。その世代が、日系人が集まることに関して肯定的なイメージを持てるようになってきたのはここ二十年程度ではないか。今でも濃厚なダメージが残っている。
 一世の発想があまりに保守的だと、二世層との間にそごを生じ、次世代が育ちにくい。「正統性」は重要だが、自由な発想も認め、若い世代の柔軟性をほめることも大事だろう。
 それがうまくいけば、たとえ遅咲きではあっても、他地域以上の大輪の花を結ぶに違いない。

(6)日系の物語を広めよ
 次の百年に向けて日系アイデンティティを残し、共同体として存続するにはどうしたらいいか。
 まずは〃移民伝説〃を作って、伝承し続ける運動を始める必要がある。幼年期に絵本や劇などを通して繰り返し憶えさせ、先祖である移民の物語を共有することで、日系人としての一体感を醸成する。
 北米日系人は悲劇を共有している。最も激烈な欧州戦場に送られ、全米軍部隊中、最大の損害を受けた日系志願兵による第442連隊。その結果、一万八千百四十三個の武勲章および九千四百七十六個の名誉戦傷章を受章して、米軍史上、もっとも多くの勲章を授与された部隊の栄誉に輝いた。
 さらに、強制収容の経験を共有してそれを人権侵害として訴える行動をとることで盛り上がりを見せた。映画『愛と哀しみの旅路』(原題Come See the Paradise)では、第二次大戦頃のロサンゼルスに住む日系二世女性とアメリカ人男性の悲恋を通じて、戦前の日系人の生活や、戦時中に日系人が入れられた強制収容所の様子がよく描かれている。
 また写真花嫁を題材にした『ピクチャー・ブライド』など、北米全体がその物語を共有することで、日系人アイデンティティの核を形成した。その最たる成果は、ロサンゼルスの全米日系人博物館だろう。
 ブラジルでも戦争中の話は事欠かない。例えば、勝ち負け紛争は不明な点が多く、陰謀説や悲劇的かつ伝説的な要素に事欠かないため、物語化するにはうってつけだ。
 かつてコロニアの中では、勝ち負け問題は、触れてはならないタブーの一つであった。しかし、当事者世代の大半が亡くなり、今ではむしろ「ブラジル社会の歴史の豊かさ」を示すエピソードとして再解釈する動きがブラジル社会側から起きている。
 フェルナンド・モラエスの『コラソンイス・スージョス』、最近のジョルジ・オクバロによる『オ・スージト』などはその良い例であり、今後ぞくぞくと続くと考えられる。
 コロニア側も頭を切りかえ、隠すのではなく、むしろ歴史的な遺産として共有・継承する動きを始めてもいい。
 さらに移民史をひもとけば、マラリアで半数が死んだ平野植民地の悲劇、ブラジル経済全体に貢献したジュート栽培をした高拓生の話、笠戸丸移民で南米の博打王イッパチ(儀保蒲太)と日系初の歯科医となった金城山戸の両極端な人生など、物語的要素の強い実話がごろごろしている。
 大事なのは、ブラジルの歴史の一部として描くことだ。
 これを、可能なら映画などにできれば一番いい。小説や絵本にするなり、青年部などが演劇にして、みなが感動を共有するような仕組みを作ってもいい。
 これらの話は、日系社会内ですら、知られておらず、若者を移民史に興味を持たせる導入部として、またとない入り口だ。

(7)文化人養成へ
 今世紀に、日系社会が意識すべきことは、世界的に評価されるブラジル文化人の輩出だろう。
 最初の百年は、経済的な安定が何をおいても最優先事項だった。
 ポ語が不自由な一世の時代には、あまり正確な言葉をしゃべらなくてもいい職業に就く傾向が強かった。地方では農業、都市部では洗濯屋やフェイランテなどだ。一生懸命に身体を酷使してお金を稼ぎ、子弟を大学へ送り込んだ。
 その結果、USPの入学者の一割以上を日系人が占める時代をとなり、弁護士、医者(特に歯医者)、理系大学教授、大企業幹部などの安定した中産階級に二世を就かせることなった。
 サンパウロ人文科学研究所の指摘によれば、二世の多くは、家庭内で日本語中心だったために若干のなまりが残ったり、生粋のブラジル人子弟にくらべるとポ語が多少なりとも苦手な場合があって、微妙なニュアンスの言葉を駆使する必要がない技術系や理系の職業に就く場合が多かったという。
 もちろん、理科系人材や会社経営者など実業界の人物の輩出は引き続き必要なことだが、いままで足りなかった文化系人材の輩出が、今後は特に望まれるのではないか。
 例えば、映画監督、俳優、小説家、哲学者、文化人類学や社会学、心理学などの学者などだ。
 一般の若者向けという意味では、バンドや役者、芸能人、音楽家、作詞作曲家などは特に存在感が大きい。
 なぜユダヤ人に映画監督や学者が多いのか。よく言われるのは、幼少時からバイカルチャー(二つの文化)の中で悩みながら生活しているので、一般人よりも深いレベルで物事や社会を観察することに慣れ親しんでいるため、との意見がある。
 なぜ米国はハリウッドを作って、映画産業に莫大な投資をし、世界に映画を発信しているのか。映画という娯楽を通して、世界は一つの価値観を共有し、米国を理想的な存在として認識させることができるからだ。大航海時代は宗教が精神的な侵略の先兵だったが、現代は〃文化〃がそれに取って代わっている。
 日系人も意識的に文化の力を活用し、ブラジル発で世界的に有名な文化人を輩出するような仕組みを考えてもいいのではないだろうか。それが「国際化した日本人」の、一つの究極の姿かもしれない。
 ブラジルから世界に通用する文化人を出すことは、ブラジルに貢献するだけでなく、日系社会全体のステータスを上げることに他ならない。

(8)先例から学ぶ
 日本国内には、外国で日本文化や日本語を継承するノウハウはない。
 でも、ブラジルには各民族系集団の先例が目前にいろいろ存在している。彼らのノウハウこそが教科書であり、日系にも適用可能なものを吸収し、新しい日系文化を形成していくことが今後の百年間の仕事ではないか。
 日系文化が形成されれば、それは時代を超えて残る、常に変化するような混交文化になるだろう。
 もしかしたら、日本の流れからは完全に枝分かれし、日本の現代文化とは似ても似つかないものにまで変化するかもしれない。しかし、より国際化された日本文化として残るならば、それもいい。
 宗教は無理だとしても、できることなら一つの「世界観」といえるレベルまで、時間をかけて、その文化を深めることが望ましい。
 カラオケやアニメを入り口にしてもいい。いろいろな娯楽や習い事を組み合わせて、幼年から老年まで、一生楽しめるような体系的なものに組織する。
 その過程で、世界に通用する文化人を輩出するような仕組みを作ることを意識する必要がある。
 「教会」「学校」「スポーツクラブ」の三点セットに代わるような、新しい日系独自の仕組みだ。もしかしたら「宗教」の代わりに「文化」を据えれば、機能するのかもしれない。
 そのような試行錯誤をすることが、ある意味、日本史の中で数少ない先達である山田長政を弔うことにもなるだろう。
 地理的には地球全体を、時間的には世界史の中で、「日本人とは何か」ということを見すえた視点が、次の百年間には求められている。(深)