2007年1月1日付け
サンパウロ市在住の高山辰雄さん(石川県出身)は、仕事を引退して今年で四十年。九十歳から百人一首の模写をはじめ、百歳になった今でも続けている。「私は子供運がよかったんですな」とこれまでを振り返った。
一九一八年、第一次大戦中に十二歳で家族とともに渡伯。そのころの金沢は、「自動車が一台くらいしかなくて、通ればみんなが見ていた」という。「日本は不景気だったし、交際費が高かったからね。うちは侍の家だったし、古かったから、寄付の額が高くて。オヤジはそれが嫌で日本を出ることにしたんだ」。
戦前移民にはめずらしく、ブラジルに永住するつもりで渡伯した。ブラジルに親類はない。サンパウロ州カンピーナス市の近く、サンタクルス・デ・パルメーラスで二年間義務労働をして過ごした。「監督がいて時間にうるさいし、奴隷のようだった」。
その後、三、四家族でミナス州に移動したが、「そのころはほとんど街なんてなかった」。米作りをしたが、思い出されるファゼンダ生活はつらいもの。「苦労したよ。米を三十俵も杵でつかされるんだ。加賀百万石だからやったことなかったしね」。
「汽車に乗っても遠く、歩かなければならない場所だった。ブラジルの学校は遠かったし、日本語学校はなかった。ギューギューと牛車のきしむ音が響いてて。本当のトラックは金持ちしか持ってなかったころだよ」。
高山さんはブラジルに来て以降、日本語を勉強していないという。「一番下の弟はブラジル生まれ。勉強するような環境になかったし、日本語もポルトガル語もできないまま、親に怒られたのを苦に、二十歳ぐらいで自殺しました」。家族の境遇がよかったとは言えない。
三二年、護憲革命の最中にまさえさん(一世)と結婚。「ブラジル人は米も植えずに逃げたけどね、日本人は知らん顔でプランタしてたよ」。その後、両親や兄弟とともにイガラパーバで綿作を始め、「綿でもうけた」と高山さんは笑顔を見せた。
転機は四十四歳のときだった。一九五〇年、農地の拡大で父親ともめて家を出た。「頑固なオヤジだったんだよ。パトロンともよくもめてたしね。侍の気持ちだったのかな。もしファゼンダを買ってたら人生変わってたと思うよ」。
その後、パウリセイアで慣れないセラミカ作りを始めた。チジョーロ(れんが)作りから始めたが、「失敗だった」と高山さんは繰り返す。「セラミカもうまくいかず、子供たちを学校にやらなあかんし、何とかしんとあかんと思って。必死だった」。
日本に戻るつもりのない高山さんは、六人の子供を戦前からずっとブラジルの学校へ通わせてきた。街の寄宿舎に入れるために資金に苦しんだという。「周りの人に『どうしてブラジルの学校なんかに通わせるんだ』って言われたよ」。今では、全員学校を卒業させたことが誇りのようだ。
六六年、六十歳で会社を引退した。高山さんが〃失敗した〃セラミカの会社を、現在は息子、そして孫が引き継いで経営を行っている。「長男は機械を扱うのがうまくてね。私はうまくいかないけど、あの子は天才的だ」。
「娘もいい人と結婚して運が良かった。子供運がよかったんだ」と話す高山さん。六人の子供、十四人の孫、三人の曾孫を持つ。今は一人暮らしのため、昼食時に毎日娘の家を行き来している。「(妻以外)家族が一人も死んでないんですよ」とうれしそうに笑っていた。