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マンチケイラに抱かれて――登山のすすめ――連載(上)=50年代の登山ブーム=前田さん、南米移住を決意

2007年3月28日付け

 近年、日本の中高年の間でブームとなっている『登山』。歩くことで、有酸素運動や新陳代謝の活性化、体力維持につながり、健康にいいといわれ、人気を博している。自然の風景そのものや、共に登山をする人との交流を楽しむのもひとつだろう。
 ところかわって、ここ、ブラジルでは、一九八〇年代まで、登山が一般的なスポーツとして認識されてこなかった。山に囲まれた日本と異なり、広い台地のブラジルでは致し方ないのだろうか……。
 だが、そんなブラジルで登山を広めたいと奔走した、山好きな日本人がいる。前田英喜さん、六十五歳。山岳ガイドになり、山荘を経営するという夢を追い続けて四十五年。ブラジルで登山の普及に努めてきた前田さんの人生を、イタチアイア国立公園内のマンチケイラ山脈の景観とともに紹介する。
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 広がる畑や農家がどんどん眼下に消えていく。反対にマンチケイラの山々が目前に迫ってくる。崖沿いの道を経て、パラナ松の林を抜ける。車がひっくり返りそうな急坂、くねくねと続く未舗装の山道、雨で崩れかけたという橋……。
 三角ミナスに位置するマンチケイラ山脈の一角、サンパウロ州内で標高第二位の、マリンス山(2421メートル)を見上げる場所に、民宿『ポウザーダ前田』があった。
 サンパウロ州から州内最後の町ロレーナを出て、約二時間。ミナスジェライス州マルメロポリスに入って、八キロのところだ。
 「途中までアスファストになりましたけど、うちに行くには、まだまだジープじゃないと無理ですね」と前田さんは笑顔を見せた。訪問客の送り迎えには慣れっこだ。
 数年前に電気が通ったというこの山間(やまあい)の地域では広い畑は作れず、住民は牧畜や果樹の栽培で生計を立てている。マルメロポリス市が近年、観光地として開発に力を入れ始め、やっと道の整備の乗り出した。
 標高千五百メートル、六月の寒いときには、マイナス八度にまで気温が下がるというポウザーダ周辺。どのようにして、これほどの奥地へ辿りついたのか――?
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 前田さんは、一九四二年、長崎に生まれた。すぐに家族とともに朝鮮へ渡ったが、五歳のときに北朝鮮から北緯三十八度線まで、夜間歩行で脱北。前田さんは、「これが最初の登山経験で、脱落せず、最後まで歩き通したことが今に繋がっていると思いますね」と、長かった道のりを振り返る。
 前田さんが登山に熱中し始めたのは中学から高校にかけて。当時の日本は登山ブームで、八千メートル級の未踏峰の征服が続いた「ヒマラヤの黄金時代」に、一九五七年、井上靖の長編小説「氷壁」がベストセラーとなった。経済白書が「もはや戦後ではない」と告げ、国民の生活にも余裕が出来始めて、山へ出かける若者が急増した。
 前田さんもそんな若者の一人だった。「氷壁」や本多勝一の本を読んでは、実家の長崎を拠点に、九重、阿蘇、雲仙など「毎週山に登った」。
 そして、二十歳。一九六〇年、前田さんは「アンデス山岳の国、ペルーに移住して、山岳ガイドと山荘経営をする」という大きな夢の実現に踏み出した。(つづく、稲垣英希子記者)