ホーム | 日系社会ニュース | 援護協会に異色の新会長=森口さんは旧サントス日本語学校生まれ=牧師で土木建築設計技師=要職、すべて周囲が推した=72歳、社会愛説く

援護協会に異色の新会長=森口さんは旧サントス日本語学校生まれ=牧師で土木建築設計技師=要職、すべて周囲が推した=72歳、社会愛説く

2007年3月31日付け

 【既報関連】神は高ぶるものを退け、へりくだるものに恵みを注いでくださる――。このほどサンパウロ日伯援護協会の七代目会長に就任した森口忠義イナシオさん(二世、72)は旧約聖書の一節を引用し、人生のモットーをこう語る。牧師であり、土木建築設計家。森口さんにこれまでの人生を振り返ってもらった。
 森口さんは一九三五年二月、サントス市の旧日本語学校で生まれた。同市の日本人会書記を務めていた父と日本語学校で日本語教師をしていた母を両親に持った。学校横の寄宿舎で八歳まで暮らした。
 「立ち退きさせられた日は肌寒い冬の日でした」。四三年、ゼツーリオ・ヴァルガス政権が発令した海岸部の枢軸国人に対する二十四時間以内の強制立ち退き令を受け、一家はサンパウロを経て、サンパウロ州バストス市に移り住んだ。
 「バストスでは、今ではコロニアの著名人の植木茂彬さんや渡部和夫さんらと一緒に同じ学校で勉強したんです」。森口さんはそう懐かしそうに振り返る。
 その後、勉学を続けるためサンパウロへ。USP工学部建築科に通いながら、設計会社に働く生活を続け、五九年に同大学を卒業した。七一年に現在も森口さんが代表を務めるプロエンジェ・エンジェニャリア・エ・プロジェクト事務所を設立した。
 森口さんは同事務所で、リベルダーデ区内にある橋やカステロ・ブランコ街道のセボロン(環状橋)の設計を担当した。現在も大サンパウロ市圏の環状道路(ロード・アネウ)の設計を請け負うなど、忙しい日々を過ごす。
 また同事務所の設立時、森口さんはマウア技術大学工学部建築科教授に就任した。〇五年に同大学を定年退職するまで教鞭をとってきた。
 この間、三人の子宝に恵まれた。長女のナオミさんはウベルランジャ大学経営学科教授、長男のフェルナンドさんは空軍大尉、次男のケンジさんはマウア技術大学機械科教授として、現在も活躍している。
 森口さんはキリスト教徒の両親の影響をうけて育ち、信仰の厚い人として知られる。八一年にホーリネス教会の牧師に任命され、リベルダーデやサント・アンドレー教会の牧師を歴任、〇五年にはブラジル・キリスト教連盟の会長に就任した。
 援協の理事歴は現職理事で最長となる二十五年。日伯友好病院の運営担当を経たあと、主に福祉部門を担ってきた。現在は設計家の経験を生かして、援協・福祉センター建設委員会の委員長をつとめている。
 「何事もやりたいと名乗り出たことはありません」―。これまでの森口さんの要職はすべて周りが推してくれたものだという。
 森口さんは援協会長としての任期中、来年の日本移民百周年、福祉センター建設、〇九年の援協創立五十周年の準備など、多くの任務を抱える。各行事への出席も多くなるが、認知症を患う妻の付き添いのため、休日や夜間の行事出席が難しい。
 「それでも会長就任にあたり、まわりの役員が任務を分担してくれると言ってくれました。みんなの期待に応えられるようがんばりたい」。そう決意を示す。
 「自分を愛するように隣人を愛す」。森口さんは最後にもう一つ、人生のモットーを語った。そして「援協創立五十年の歴史を背負う立場として、先人の哲学、社会愛をこれからも大事にしていきたい」と顔を引き締めた。