2007年4月14日付け
戦前の日本語学校はどんなだったのだろう――?一九二八年、第一回外務省教員留学生として来伯し、以降三十六年間にわたって教壇に立ちつづけた清水昭雄さん(100)。今やらなければ、わからなくなってしまう日本語教育の歴史をきいておこう、と有志が古参教師を尋ねた。
清水さんは、長野県生まれ。同県の師範学校専門科を卒業したのち、力行会で来伯。カンピーナス師範学校を卒業し、日本人で初めてブラジルの正式な教師免許を取得した。三三年から第一アリアンサ小学校に三年、コチア小学校に五年、モジ・ダス・クルーゼス奨学舎に七年。戦後は、イビウナ奨学舎に十四年、日伯文化普及会(現・日伯文化連盟)に七年間奉職して、六九年まで教育事業に携わった。七八年に旭日単光賞を受章している。
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「このころ(三〇年代)田舎では師範を出た人はほとんどいなかったですね。資格がない人たちが教えてました。だいたい師範に行っているときには、外務省から月百円ずつもらってまして、あの頃、日本での新卒給料が五十五円でしたし、全伯教師補助金の合計が三百円でしたから、いい生活でしたよね。百円がだいたい四百から五百ミル、カマラーダの給料が二ミル五百のときですよ。私はアリアンサでも四百ミルもらってましたから」。
「どこでもそうですけど、(戦前の日本人移民の)子供たちはポルトガル語がほとんどわかりません。ブラジル人教師が「勉強をしない」って怒ってて。そういえば(アリアンサの)教師社宅は天井のないところでした」
「教科書は、日本のを取り寄せて。当時四百五十くらいの日本語学校がありましたけど、一人が複式で一年生から六年生までを見てましたから、ほとんど学校に先生は一人か、二人。四、五人いたのは、バストスとコチアと大正(小学校)くらいじゃないでしょうか。コチアにはサンパウロから一時間かけて通う生徒もいて、百八十人くらいいました」
「三五年過ぎからほとんど日本語ができなくなって。ただ、宿舎のあるところは、ブラジル学校に通うと口実をつけて、やってましたよ。戦後も六七年ごろまでうるさかったんですが、イビウナでは近くに住んでる日本人も皆宿舎に入ってましたね、授業してました。逆にポルトガル語を覚えないからと、二世の先生を連れてきて宿舎でポルトガル語をしていたこともあります。最初は落第生ばかりだった」
「学校では学芸会、お話し会、運動会、展覧会なんかがありましたね。図画や女性が裁縫のクラスで作った着物を展示しました。男性には、普通学校を出た人が農村で働くために補習科がありましたよ。社会科のようなものです」
「給食は半分がブラジル(食)で、半分は日本(食)でしたね。米とフェジョンと。もちはあまりなかったです。豆腐はイビウナにはありました。当時の子供の喜びは巡回するシネマでしたね」
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清水さんは、嫌だったことは「日本語をやるな」と主張するブラジル人との交渉。楽しみは「気のあった人と飲みながら話すこと」と振り返った。
「昔、交際していた人も皆おらんなって、話し相手がおらんのですよ」。教壇を降りてから専念していたろうけつ染めも九十歳のときにやめ、最近は毎日をゆっくりと過ごしている。