2007年4月27日付け
和歌を詠まれた香淳皇后は亡くなられ、その和歌の〃主人公〃達もほとんどいなくなったが、記録された石碑は残る――▼神戸の日伯協会のボレチン『ブラジル』は、最新号で横浜市のみなとみらい21新港に建立されている「ララ物資記念碑」を紹介した。石碑に刻まれた御歌は二首。
ララの品つまれたる見て
とつ国のあつき心に
涙こぼしつ
あたヽかきとつ国人の
心つくし
ゆめなわすれそ時は
へぬとも
▼敗戦で大都市が廃墟となった日本。一九四六年十一月、横浜新港に米国からミルク類、穀物、衣類、など日用消費物資が届けられた。アジア救援団体―この団体の英語の頭文字が「LALA(ララ)」―から贈られた品々だった。これら救援物資の一部はブラジルからものである▼当時、日系社会は「勝ち負け抗争」の真っ只中。日伯両国は国交を回復しておらず、日系人たちは、サンフランシスコの友愛奉仕団体に依頼して送った。お金やうどん、衣類、コーヒーなど〃肉親〃が喜びそうな品物が選ばれた。抗争はしていても母国支援では気持が一緒だった。送る運動の中心になっていた人たちはすべて鬼籍に入っている▼香淳皇后は、昭和天皇とともに、四九年十月、横浜のララ物資保管倉庫を訪問され、さきの御歌を詠まれた。物資の恩恵を蒙った日本の日本人にはまだ生存者がいて、今も感謝の言葉を口にする。ブラジル在住者も先人達の活動を末永く記憶に止めておこう。(神)