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ナマズよりエネルギー=環境保護にも限界あり

2007年5月9日付け

 【エスタード・デ・サンパウロ紙四月二十四日】イエスキリストは、お腹が空いたので良く葉の茂ったイチジクの木を見た。ところがイチジクの実がなかったので、呪われよといった。するとイチジクの木は翌日、根まで枯れていた。環境保護団体は、木を枯らすために神通力を使ったとキリストを咎めるだろう。
 ルーラ大統領は二十日、マデイラ河の水力発電所計画が進まないとナマズを呪った。自然環境保護院(IBAMA)は、魚の生態系保全が不明だと開発許可を発行しなかった。大統領は神通力がないので、ナマズは皆殺しにならなかった。環境保護団体が反対しないような理想的プロジェクトは存在しない。
 道路建設や橋梁、港湾、油井、農地拡大、干害対策は全て環境保全に影響する。環境を損なわずにエネルギーは生産できない。風力発電もマヌケな雀を殺す。環境保護団体の要求に従っていたら、これから四〇年間水力発電所は建設できない。イタイプ発電所はセッテ・ケーダスの景勝を水中に葬った。
 チエテ川やパラナ川、パラナパネーマ川は、膨大な植物生態系を呑み込んだ。シウヴァ環境相は、人類のために魚を釣る小川を保護する必要があるという。魚釣りのためなら、産業を動かす発電所建設を犠牲にするより漁船で捕獲した魚を配給したらどうか。
 IBAMAは、産業のエネルギー確保よりもナマズの将来が大切らしい。そんなにナマズが大切なら、貯水湖から水を引いてナマズの養殖所をつくればよい。しかし、問題はナマズではない。誰に決定権があるのかがあいまいなのだ。
 経済発展と環境保全は秤の両天秤であることは、誰も異論がないはず。しかし、この均衡を決める基準がなく、判断法の定義もない。その決定は、環境省ではなく政治家と政府に任せるべきではないか。ナマズはいつも大統領の膝の上にいるのだ。