2007年5月16日付け
百年近い歳月を超えた音色とともに――。笠戸丸移民の生活を記録しようと、十日、沖縄県人の笠戸丸移民、宮城(みやしろ)伊八さんの末っ子・宮城セイシンさん(72)への、聞き取り調査とビデオ撮影が同県人会館で行われた。伊八さんの出身地、沖縄県読谷村(よみたんそん)の郷友会が協力し、FDP(記録映画製作所)が撮影。セイシンさんは、伊八さんが笠戸丸に積んでブラジルに持ち込んだという三線を奏でながら、父とともに過ごした幼い頃の生活に思いをめぐらした。
宮城伊八さんは一八八九年生まれ。十九歳で笠戸丸に乗り、海を渡った。一九六二年に亡くなったが、ブラジルに、子供八人、孫十二人、曾孫二十三人、玄孫(やしゃご)四人の大家族を残している。
「移民の生活は大変だったんだ。ご飯もよくなかったし」とセイシンさん。カナーン耕地に配耕されたが、三カ月で脱耕。他の移民らとともにサンパウロから歩いてサントスへ移動し、港湾労働者を経て、野菜づくりを行った。
二十年ののち、サン・ミゲル・パウリスタに転住、ジャガイモを、さらにビラ・プルデンテでの野菜栽培に従事。当時の話を知る宮城アキラさんは、「三九年、サントス退去令が出されたときに、伊八さんは二家族も自分の家にかくまった。まさにウチナンチューの心『イチャリバチョー(会えば兄弟)』のある人だった」。
沖縄コミュニティーの中では人柄が良く、〃よく知られた人〃だったという伊八さん。鍼治療、灸、薬草技術を、無料で施していた。
セイシンさんは「「勉強しなさい、専門を持て、と厳しくいわれた」と父の言葉を振り返りながら、「彼女は誰でもいいけど、ウチナンチューが一番、ともね」と顔をほころばせた。
伊八さんは、帰郷を夢見たが、一度も日本の土を踏むことなくこの世を去った。孫の与那嶺ルーベンスさんは、一九五八年の日本移民五十周年の際に、伊八さんが語った思いを伝え聞いている。
その聴き取り内容は「ブラジルに来たときは生活に苦しくて、日本に帰りたかった。落ち込んだ。苦しみを乗り越えて、家族が出来てから、やっとブラジルを第二の故郷として受け入れられるようになった。今、家族がこのブラジルにいる。五十周年を迎えて、幸せだ」。
撮影では、伊八さん夫婦の写真、五十周年祭での表彰状などを前に、セイシンさんは、伊八さんが日本から持ち込み、毎日弾いていたという三線を奏で、ルーベンスさんと、撮影の手引きをした金城政喜さんが、その調べに耳を傾けた。
伊八さんの生涯の詳細を含んだ、郷友会創立三十周年記念誌「ブラジル読谷村人会の歩み」は、七月に発刊される。同村出身の、十一人の笠戸丸移民の足跡も記されている。