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老ク連、「開拓の記憶」=〃ふるさとの旅〃へ=連載(5)=ダムに沈んだ移住地=P・バレット=〃亡き吊り橋〃にも感慨

2007年5月26日付け

 「原始林を焼きはらって真っ黒に焼けたところを片付けてた。道中で母を亡くしたけど、その時にはもうここの土地を買ってたから来たの。今までで一番嫌なところ。思い出したくもない」。
 森とし子さん(84、サンパウロ中央老荘会)は、一九三五年から三六年にかけての約一年間を、チエテ移住地で過ごした。十二歳のころだ。「苦労ばっかりで。夢みたいだったわ。すぐに出たの」。
 四月三十日、老ク連一行は、ペレイラ・バレット(元チエテ移住地)を流れる、チエテ川にかかる橋の上にいた。天気は快晴、心地よい風が吹く。一九九〇年に作られた二千百二十二メートルの橋だ。参加者らは、「前の橋はどのへんにあるのかしら」と水面を覗き込んだ。
 最初の移民が同地に到着したのは、一九二八年八月九日。新開拓地だったために今のように橋はなく、小舟に乗り込んで川を渡っていたという。
 一行は日程を変更してペレイラ・バレット移民資料館に移動し、急遽駆けつけたクスダ・ヨシオ館長、マスダ・イサオ副館長の説明を受けた。
 二七年に、のちにブラジル拓殖組合の指導者の一人になる梅谷光貞氏が来伯、「新しい街を作ろう」と、約四万六千アルケールの土地を買って、人を集め、十アルケールずつが割り当てられた。ルッサンビーラ駅で下車。アリアンサ行きかチエテ行きに分かれる。
 「政府がカフェ生産を禁止していたので、ここでは綿が作られたんです。川のそばで暑くなるから、チエテ川沿いはマラリアがひどかった。植民地はそれぞれ小川に沿って、上の方に作られました」とクスダさん。
 一九三四年、日本政府が八百コント、ブラジル政府が四百コントを支出して、高さ二十五メートル、幅七メートル半の吊り橋『ノーボ・オリエンテ』が建設された。マスダさんは金色のバッジを取り出し、「『繁栄』の意味をこめて、日本から稲の形のバッジが贈られたんです」と微笑んだ。
 一九三六年時点での入植者数は、千三百六十家族。三五年三月時点でのチエテ移住地図には、家長名と、直線で区画整備された畑、第一市街地と第二市街地の位置が明確に記されている。
 森さんは地図をのぞき込み、「ここにいたんだよ」と旧姓の「梅田」と書かれている敷地を指差した。
 「第三市街地でセントロから二キロいったとこ。今は家一軒もない。さとうきび畑にでもなってるんじゃないかな」。以前、弟とともに同地を訪れたときには「川底に沈んだ橋を見た」ともの寂しげに話した。
 一九九〇年七月にダムを閉め、十二月には「全てが水に浸かった」。吊り橋も「あっという間に沈んだ」とマスダさん。
 日本人は四十家族ほどが立ち退き、文協も、現在のチエテ川沿いに新たな土地の寄付を受けて移動した。
 十五のゲートボール・コートが整備され、体育館、野球場、陸上競技場がある。約四百家族が活動し、「若い人も古い人も混ぜて、みんなでやっている」とマスダさんは話した。
 川のほとりで行われるペレイラ・バレットの盆踊りは盛大で、マット・グロッソ・ド・スル州からの参加者を多く数える。文協の敷地内には専用の常設会場があり、彩り華やかに飾られて毎年、祭りを迎える。今年も八月末に開催される予定だ。
(つづく、稲垣英希子記者)