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拓魂=県連・ふるさと巡り=汎ソロの移民史名所を訪ねて=連載《1》=アルバレス・マッシャード=埋葬者の3分の1が幼児=日本人墓地で開拓初期偲ぶ

2007年5月31日付け

 ブラジル日本都道府県人会(松尾治会長)主催の恒例「ふるさと巡り」(長友契蔵団長)も第二十七回を迎え、ベレンなど遠方からの参加者も含めた八十四人がバスに揺られながらソロカバナ線沿線や聖南西地区をめぐった。十六年ぶりの汎ソロ地域訪問となった今回、唯一連邦政府に史跡登録された日本人墓地で有名なアルバレス・マッシャード、汎ソロの中心地プレジデンテ・プルデンテ、カンナ景気に沸くオウリーニョス、さらに熱帯果樹で後継者育成に励むピラール・ド・スルなど、移民にとっては第二の「ふるさと」である数々の移民史の名所やゆかりの地をまわりながら、毎日線香をあげ、開拓先亡者に手を合わせた。
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 すっかり秋の風情になった五月十六日夜十時、ふるさと巡り一行をのせたバス二台はサンパウロ市リベルダーデ広場を出発、一路カステロ・ブランコ街道をひた走った。翌朝七時にプレジデンテ・プルデンテのホテルに到着。朝食をとってすぐに最初の目的地アルバレス・マッシャードへ向かった。
 一行が日本人墓地に着くとすぐに、開拓先亡者追悼慰霊法要が始まった。一九一九年から四三年に禁止されるまでの間に、七百八十四人もが埋葬された。
 丘の斜面、学校敷地五アルケールの一角が壁で囲まれ、入り口の門には「日本人墓地」と書かれている。まっすぐ入ると「御身堂」がたっており、その横には有名な星名謙一郎の石碑が建っている。
 アルバレス・マッシャード日伯農村体育文化協会の小梅川寿男書記は追悼の辞のなかで、「千古不滅の大森林に荷を背負ってムダンサし、インジアナ駅より約五十キロも離れた山奥に入植、志半ばにして不幸にも倒れた人たち、幼児、婦女子、父兄らは薬を与えられることなく亡くなりました。礎となったその尊い命を偲ぶとき、まさに感無量であります」と語った。
 一九一七年に星名がブレジョン植民地(二千アルケール)をとして売り出すために測量隊が入植したことを嚆矢とし、今年ちょうど九十周年を迎える。ブラジル最初の邦字紙といわれる「週刊南米」はこの植民地を売り出すために一九一八年に発行された。
 さらに特筆すべきは、一族郎党五十数人を率いてこの地の植民、開拓に尽力した小笠原尚衛の存在だ。日本人墓地も彼が登記所に許可申請したことから可能になった。まさにこの二人が植民の基礎を作った。
 阿弥陀経のお勤めをした孫田信導師(西本願寺、49)は、「ここへ赴任してきて二年あまり。最初に日本人墓地にお参りさせてもらった時、お墓の名簿を見て、一歳、二歳、三歳の子供ばかりだったのに気付きました。みなさんもお孫さんがおられるでしょう。一番かわいいときに亡くなってしまう。その悲しみを超えて、植民地の辛い仕事を乗りこえて日系社会の礎を作ってきたことを思うとき、何ともいえない気持ちになる」と涙ぐみながら語り、もらい泣きする姿も見られた。
 開拓初期の苦労は筆舌に尽くしがたい。
 追悼法要のあと、同文協の副会長、前田喜一郎さん(77、二世)は「最盛期には十三、十四支部まであったんですよ。今は四支部しかないが」と往時を振り返った。
 中央の墓石に左右から寄り添うように少し小さめのが配置され、三つで一つの墓になっているのが目についた。変わった形だと思っていたら、母親が子供二人と無理心中した家族の墓だという。確かに死亡年月日が三人とも一緒だ。
 同文協の松本一成会長(70、長野県)は、「平野植民地では一年で八十数人が亡くなった。ここでは、それほどの悲劇はありませんでした」という。
 それでも、埋葬者の三分の一は幼児だという数字は、むしろ、初期の開拓移住地ではどこでもみられたであろう厳しい状況を、この墓地は思い起こさせてくれる。日本人だけが埋葬され、そのままの状態で現在まで保存されたこの墓地は、まさにコロニアにとって貴重な財産だ。       (深沢正雪記者、つづく)