2007年6月13日付け
さきごろ移民妻の労働に対して年俸を支払うとして試算したらどのくらいになるか、と書き、その多額さを推し量ったが、それはあくまで他人が行う数字上の処理であった。移民妻たちの内面は、移民妻たち自身の〃証言〃によらなければ、よく理解できない▼このほど刊行された『あらくさ』合同歌集第三号の巻頭歌に「移民の妻たち」が取り上げられた。故人三人の作品である。平易な詠みぶりだから、わかりやすい▼「商売を競うが故か身につきしあらあらしさを時にかえり見る」(小竹清子)、「夜の更ける程に自ずと目は冴えるセアザに働く習わしにして」(後石原百合)。編集スタッフの高橋よしみさんは「楯となるべき夫を亡くし、会話も覚束ない異国の地に寡婦の細腕ながら店をおこし、子供達に高等教育を授け、優れた社会人として世に送り出した移民妻たちの呟きの雫をここに記した」と選歌のことば▼化粧気もなく、男勝りに働かなければならなかった、そしてそれを避けられぬと自覚し、受け入れた妻たち。「歌」は、そうした自身を突き放して詠んでいるかのようだ。もう一首、この優しさはなんと言ったらいいのだろう。「貧乏の歌のみ多き吾が夫に金を豊かに持たせてみたし」(酒井雪江)▼移民妻たちの歌の鑑賞は、ある程度年を取らないとしっくりこないようである。それと在伯年数も相当経ないとわからない。近い将来、移民妻自身が詠む歌の新作はなくなるだろう。過去の作品はその意味で貴重である。(神)