2007年6月16日付け
高橋好之さん(よしゆき、77、東京都出身)=リオデジャネイロ市在住=はサンバ好きが高じて、六十一歳にして移住したブラキチの鏡ともいえそうな人だ。元々、日本でエスコーラ・デ・サンバを創立して浅草サンバカーニバルに毎年参加していたのみならず、三人目の奥さんにブラジル人を選び、六十歳を過ぎてからついに移住までしてしまった。その破天荒な人生の一端を聞いてみた。
「ブラジル来るまでは居酒屋を二十二年間やってたんだ。酒飲めないんだけどね」。カッカッカッと豪快に高笑いが響く。埼玉県蕨(わらび)市で三畳ほどの小さな店だった。椅子は九脚しかないが、客の帰る明け方三時、四時まで開けていた。
いつもサンバが流れており、初めて来た年輩の客などは「変な店だな」というのが常だった。三度の飯よりサンバが好きで、注文の料理をサンバのステップを踏みながら渡しに行ったりしたとか。
ブラジル音楽との出会いは四十七歳の時だったと言うから、サンバ歴はもう三十年になる。東京・六本木の「ホットコロッケ」でサンバの生演奏を聞き、「なんだコリャ!」と鳥肌が立ったという。
高橋さんいわく、「サンバだから見るもんじゃないから、『目からうろこ』じゃなく『耳から鼻クソがでた』だな。とにかく、たまげた」と独特の表現をする。心臓の鼓動のように刻まれる力強く軽快なリズムに、言いようのない気持ちよさをおぼえた。
八一年に浅草サンバカーニバルが始まり、さっそくサンバ・シテールというグループを創立し参加した。「サンバやるから〃サンバしてる〃、じゃあ、それをグループ名にしよう」としゃれっけたっぷりにはじめた。現在は息子が後を継ぎ、アレグリアと名前を変え、今も続いている。
八八年に初めてリオへ旅行し、本場のサンバを体験した。その時、人に紹介され、十九歳年下の現在の奥さんアパレシーダさんに出会ってつきあい始めた。癌研究者の彼女は、趣味で日本語を勉強していた。翌八九年には籍を入れ、第二の人生の住処として九一年にリオへ引っ越してきた。ある意味、「サンバ移民」だろう。
〇二年にはサンバの殿堂、マルキーゼス・デ・サプカイー(サンバ会場)から四百メートルのところにアパートを買い、「カーザ・デ・サンバ」と名付けて日本から音楽やカポエラなどをやりにくる若者向けの宿泊所もはじめた。
高橋さんの面倒見の良さもあって、日本からのサンバ関係者の溜まり場のようになり、多いときは四十二人も集まったという。
九八年頃には日本テレビの番組「嗚呼!薔薇色の珍生」にも「突如、ブラジル人になったオヤジ」というタイトルで、サンバ仲間と共ににぎやかに出演し、その回で最も珍しい人生を送っている人に選ばれたという。
他には「タイガーマスクの仮面をかぶって新聞配達するオジサン」「熊に襲われて大声をだしてたすかったオジサン」とかいろいろいたらしいが、並みいるオジサンを押しのけて〃珍生代表〃になったと笑いながら話す。
高橋さんは、興にのってくると口上売(こうじょうばい)を始める。『男はつらいよ』の寅さんのような語りだ。小学校の三、四年、東京は巣鴨のとげぬき地蔵の近くに住んでいた頃、縁日にずらっと並んでいたのを見て憶えたという。地獄極楽巡りなど、懐かしい縁日の風景がユニークな語りで再現される。
まるで落語家のように、一時間でも二時間でも馬鹿話をし続ける驚異的なネタとサービス精神の持ち主だ。
かと思えば、急に東京大空襲の思い出話になって、川に市民が次々に飛び込んで逃げたために溺死者が出た目撃談を始める。
最新のブラジル音楽事情から、学童疎開、その話題の広さに驚かされる。「今は〃リオのおじさん〃で通ってるね」とあっけからん。第二の人生はトロピカルなリオでサンバ。やっぱり、ただの移民ではないようだ。