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ポ王室リオ到着から200年=逃避行が伯史を塗り替える

2007年6月27日付け

 【ヴェージャ誌二〇一三号】ポルトガルの王室が一八〇八年、リオデジャネイロ市に移転して二〇〇年になる。当時同市の人口は約五万人で、半分が奴隷であった。後の残りが王室関係者を含む市民で、都市部の住宅は全部で七五〇〇戸以下であった。
 中心街は迷路になっていて、山羊や豚、鶏が歩いていた。町外れの最後の住宅を過ぎると、沼地が広がっていた。王室がナポレオンの侵略から逃れ、一族と宮廷廷臣、女官を引き連れブラジルへ上陸したときの光景だ。約二〇〇年前のことである。
 狂人といわれたマリア一世女王とレジェンテ皇太子(後のドン・ジョアン六世)の一行は、何人の同行者を同伴したのか謎である。当時の発表では三万人といい、後に一万五〇〇〇と訂正した。最近の歴史書には、八〇〇〇とも四〇〇〇ともいう。
 アイルランドの航海士オニールの艦隊には、一万六〇〇〇人が乗ったという。何しろ逃避行である。すし詰めでギュウギュウの引き揚げ船が、五十六回もピストン運航した。外交官や軍人、政府高官がわれ先にと恥じも外聞もなく命からがら乗り込んできたのだ。乗船者数など数えているヒマもなく慌しく出航した。
 護衛をした英国の軍艦には資料があるが、ポルトガル船は旅券や航海記録などいい加減であった。噂はデマを呼んだ。航行中にフランスの軍艦に襲われ、金品を奪われ乗客は海に投げ込まれたというのだ。船中はキンキンカリカリのヒステリー状態であった。
 リオ到着の日、小雨が降っていた。全員着のみ着のままでぬかるみを歩き、ドロドロであったが、着替えがなかった。貴重な資料も大量に降ろされたが、泥土の中で踏みつけられ紛失した。皇帝一家の引越しと聞いて、物珍しさで見物人が多勢集まった。
 航海は二カ月かかり、食事と水は配給制であった。衛生状態は最低で入浴はなし、満員の甲板で排便し海へ投げた。大西洋の真中でシラミが増殖し、カルロッタ・ジョアキーナ皇女は丸坊主にされた。船からリオが見えたときは、歓声が上がった。王室一行のために多くの住宅が没収され、市民は不満を訴えた。
 王室到着の翌年以後、ポルトガル以外の国から移民が殺到し、リオの人口は一一万二〇〇〇人に膨れ上がった。ポルトガル本国は、英軍の援軍がフランス軍をイベリア半島から追放した。さらに英軍のウエリントン将軍は、ワーテルローでフランス軍を壊滅し、ナポレオン時代が終わった。
 ブラジルは、ポルトガルの王室を迎えて大きく変わった。まずブラジルの全港を開港し、外国貿易を奨励。外国移民を大量に受け入れた。通貨の流通を解禁し、ブラジル銀行を創設した。リオに医科大学と工科大学を設立、一八二二年には独立した。

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