2007年移民特集
2007年6月27日付け
日本では人口減少や伝統文化継承の困難さを訴える声が聞こえるが、ブラジルでは九十余年のうちに五世世代が生まれ、その間に三人から約三百人と百倍に増えた家系がある。そこから日本政府からの受勲者が三人も誕生した。さらに驚くべきことに、いとこ会は新聞を出し、ホームページすら作っているという。百周年を前に、子孫繁栄の秘訣を聞いてみた。
北パラナのマリンガ市に安永修道さん(56、三世)宅の、家族が団らんする台所の壁には、なにやら巻紙のように細長い紙が張られており、細かい字でびっちりと名前が書き込んである。なにかと思ってのぞき込んでみると、それはローマ字で書かれた家系図だった。
「去年の正月に、日本の安永家から親戚がきた。それがきっかけです」。この家系図を作った長男の英雄さん(22、四世)はいう。わずか一週間で基本的なことを書き込み、親戚に会うたびに生年月日を尋ねて書き加えてきた。
母親の安永香律代さん(かずよ、54、旧姓・中里)は「今でも息子は付け足している。いとこが遊びに来ると、この家系図を見て、自分はどこにいるかな、って探すんです」と微笑む。
「今でもほとんどの親族と連絡がつきます」と修道さんは誇らしげに語る。
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熊本県玉名郡南関町から一九一四年に渡伯し、モジアナ線リベイロン・プレットのカフェ耕地ヴィラ・ゴスチーナに入耕した三人が、安永家のブラジルの元祖だ。安永耕夫(こうふ)さんと弟の良耕(りょうこう)さん、その妻のセキさんだ。
忠邦さんの子息、長男の和教さん(60、二世)=リンス慈善文化体育協会会長=によれば、その農場は現在まで続いており、その三人がツケで購買した帳簿まで残っているという。
最初の四年間の契約農期を終了したころ、ちょうどプロミッソンでは上塚周平が上塚第一植民地の造成を始めていたので、一八年に同地へ移転。そこで生まれたのが、現在、最古参の忠邦さん(86、二世)だ。
良耕さん夫妻の子息で、兄弟は全部で十一人おり、それぞれが子供を産んで、五世代で約三百人にまでなった。忠邦さんは生まれたその町で現在も暮らしている。
[su_spoiler title=”受勲者は一族から3人=45人が同じ屋根の下に” icon=”plus-circle”]
「父が一番大事にしていたのは教育勅語でした」。忠邦さんはその志を今も貫く。「子供、孫は教育勅語から字を頂いている」。
今でこそ安永家は全伯各地に散らばっているが、かつてプロミッソンには安永家四十五人が一緒に住んでいた。その家は十四部屋もある大邸宅で、今も大切に保存されている。和教さんは「ボクもそこで生まれ育った。安永家はあそこから始まったんです」と懐かしがる。
和教さんは「父から教育を受けた。最も大事にしているのは、少しでも社会のために尽くすという団体精神の大切さです」という。
次男の修道さん=マリンガ在住=も、かつてマリンガ文協会長を務めた。三男の邦義さんは首都ブラジリアで、小泉総理来伯時にダグアチンガの日系団体会長をしていた。他に五人姉妹がいる。
忠邦さんはいう。「第二次大戦のころ、父はよくいいました。自分たちは男兄弟が六人なので、もし日本にいたならば、何人残ったか分からない。その分、一人一人が社会のために奉仕しろ、と」。
「ブラジル生まれで浅学でありながら~」そう、忠邦さんは言葉の端々に謙遜をこめる。しかし、日本語教育が禁止された戦前戦中にも、青年会の教育部長として日本語教育に粉骨砕身、取り組んできたという。
忠邦さんは八三年七月、第五回本邦研修で、生まれて初めて日本の土を踏んだ。
「飛行機の上から田圃の綺麗な風景が見えて、ここが自分の〃祖国〃だと思って、涙が出てしかたなかった」
東宮御所で皇太子殿下(現天皇陛下)にも接見できた。「温かい言葉で迎えてもらって、一生忘れません」。八年間前まで五十四年間にわたって、日本語教育に奉職してきた。
叙勲されたのは父親の良耕さん、忠邦さんの兄で戦前戦後を通して九期三十六年間もプロミッソン市議をつとめあげた伯雄さん、それに忠邦さん自身だ。一族から三人もというのは、かなり珍しい例だろう。
プロミッソンの安永家には正月、今も親戚が四十人ほども集まって先祖に感謝する〃お勤め〃をする。
まずは、日伯両国歌を全員で斉唱。続いて、日ポ両語で教育勅語を奉読する。
そして「同期の桜」を老若男女全員で歌う。もちろんこれは軍歌だが、忠邦さんは「別に戦争の好きな人間になれといっているのではありません。安永家は北から南まで散らばっていますので、例えどこにいても家族力を合わせて団結していこうという意味で、全員で肩を組んで合唱するんです。力を合わせてがんばろうって」と説明する。
その後、新年の宴にうつる。最後はお年玉の交換。まずは全員、日本語で自己紹介する。忠邦さんは「私にブラジル語で話しかける孫は一人もいません」と胸を張る。
修道さんは「今の子供は親戚を知らない。それどころか、親自身が仕事に忙しくて子供と時間が作れないとかいっている。それではいけない。親戚が顔を会わせることは重要だ」と力説する。
その妻、香律代さんも「子供の頃に仲良くなっておけば、例えしばらく会わなくなる時間をおいても、大人になってからまた戻ってきます」も血縁の絆を重視する。
安永家の誇りは若い世代が集まった「いとこ会」だ。その従兄弟会はなんとおそろいTシャツ、新聞、ホームページまで作っている。ブラジル広しといえど、そこまでのこだわりが若い層にまで徹底している家系はほとんどないに違いない。
この従兄弟会は「いとこ新聞」まで不定期で発行して、全親族に送っている。約束事として「必ず日本語のページを作らなくてはならない」とされ、徹底されている。
日本語に厳しい忠邦さんの指導でそうなっているのかと思いきや、「私は特に関係していない。従兄弟同士がやってる」という。日本から親族がメールで近況を送ってくるので、それも記事として掲載されるため、自然と両語による記述になったようだ。
その他、ホームページには、安永家と関わりの深い中里家と合わせた六百人の親族全員の名前と顔写真、生年月日まで記されている。さらに日本までたどって安永家の歴史も説明されている。
英雄さんは「全部みたら一時間かかります」とまじめな顔でいう。
血族の絆が強いブラジルでもここまでする家族はちょっと珍しい。わずか百年足らずで百倍にまで増えた秘訣は、「社会に奉仕」「家族の団結」なのかもしれない。
正月に「教育勅語」「同期の桜」と聞いて、最初は正直いって驚いた。忠邦さんは「時代遅れでしょうか」と謙遜するが、時代が一回り巡って、むしろ安永家は最新の場所にいるのかもしれない、とすら感じた。
日本文化や日本語へのこだわり、そして子孫の繁栄。世代を超えてそれを貫くには、強烈な哲学が必要だったはずだ。そのためには正月の〃お勤め〃にあるようなものが、強い支えになったに違いない。 (深)