2007年移民特集
2007年6月27日付け
ブラジル日本移民九十九周年の幕開けイベントとなる企画展「笠戸丸以前の渡伯者たち―大武和三郎、藤崎商会、隈部三郎を中心として―」(ブラジル日本移民史料館主催)が同史料館九階で開かれている。初の日本移民船、笠戸丸がサントスに到着する以前に、ブラジルに足跡を残した日本人たちを検証する企画だ。葡和・和葡辞典を編纂した大武和三郎、永住を目的とした初の家族・集団移民としてブラジルの地を踏んだ隈部三郎、ブラジル最初の日本人商店、「藤崎商会」のそれぞれの軌跡に光を当てる。写真パネルや関係書類など計百五十点の豊富な資料が展示されており、コロニア神代の時代を知る貴重な特別展となっている。開催期間は八月十二日まで。
[su_spoiler title=”隈部三郎=先駆人生の光と影” icon=”plus-circle”] 隈部は一八六五年(慶応元年)熊本県熊本市生まれ。熊本公立師範学校小学師範科を卒業し、教員となっている。
八七年に法律家を目指し上京、東京府神田にあった私立英吉利法律専門学校に入学、学生時代にクリスチャンの洗礼を受ける。
卒業後、鹿児島始審裁判所に勤務、〇六年にブラジル行きを決意するまでの十七年間、判事と弁護士を務めている。九一年には、妻五百を娶っている。
〇五年、第三代ブラジル公使杉村?(ふかし)によるブラジルの将来性を説いた「杉村報告書」により、ブラジル移住を思い立つ。
このとき、移民の父と言われる水野龍もブラジルの可能性を見出し、両国政府と交渉、三年後には初の移民船となる笠戸丸に乗り込んでいる。
水野のアプローチとは違い、隈部は自ら移民として行動、移民の見本、模範たろうとした。当時の鹿児島新聞に送った文章のなかに「~我同胞をして移住せしむる方法順序を講ずると同時に航海問題の研究~」などがある。
隈部は家族六人のほかに県下に同行者を募り、本田武治氏を家長とする家族五人、安田良一(息子、ファビオは日系初の大臣となる)他六人が隈部の目的に同調し、日本を発っている。
〇六年当時のサンパウロの人口は約三十万人。藤崎商会関係者、鈴木貞次郎など日本人もいたが、何のツテも持たない一行はたちまち生活に窮することになる。
それぞれがホテルの下働きなどの仕事を見つけ、隈部一家は全員でタバコ巻きの仕事で糊口を凌ぐことになる。
〇七年、一家と安田、有川新吉、西沢為吉の三人は、リオ州マカエーのサンアントニオ耕地に「日本植民地」建設の目的で入植するが、誰も農業の経験はなく、地勢、気候、資金調達など数々の問題から、四、五年後には全員が退耕を余儀なくされ、一家はリオに出ている。
門衛、資材倉庫番などの職を得た隈部。生活も安定し、長女の光の結婚などもあった。隈部は「伯剌西爾時報」の新年号に、一七年から五年間、移住論を展開する。
一八年には、次女照、三女暁が揃ってリオの師範学校を日本人として初めて卒業、翌年教職に就くにあたり、初の帰化人となる。
照の結婚、長男恵一のアメリカ留学、三女が力行会員の野上豊と結婚するため、北米へ行くなど、家族がそれぞれ独立していく。 野上夫婦はブラジルでの農場経営を夢見て、営農資金を隈部に送るが、隈部は自分の事業に一時流用、共営者が姿を消したことから、結果的に娘婿に多大な損害を与えることになる。 続いて、隈部に精神的ダメージを与えたのは、二四年、生涯の友だった山縣勇三郎の死去だった。備忘録に「ブラジルノ…随一ノ知己ヲ失フ 痛惜に耐ヘズ」と書いている。
二六年、唯一の希望だった恵一の素行が思わしくないことを知った隈部は、その学費を娘婿の野上が仕送りしていたこともあり、強く罪の意識を感じ、同年八月遺書を残して、サントスからパラナグアに向かう船から身を投げ、六一歳の命に自ら終止符を打っている。
「およそブラジルに来た邦人で、大武さんの字引に世話にならなかった人はないだろう」(物故者列伝) 移民たちにとって、強力な武器となった葡和、和葡辞典の編纂を一人で成し遂げた大武和三郎は、一八七二年東京神田駿河台で生まれている。
忍岡(しのぶがおか)小学校を卒業後、横浜に転住、八九年世界就航のため、横浜に入港したブラジルの軍艦アルミランテ・バローゾ号(クストージオ・デ・メーロ艦長)に乗船していたドン・ペドロ二世の孫、アルグスト・レオポルド殿下に英語の通訳をしたことから、ブラジル行きを勧められ、船上の人となる。
しかし、航海中の同年十一月十五日、帝政が崩壊しブラジル共和国が成立、殿下はセイロン島で下船してしまう。
後ろ盾を失ったまま、ブラジルに着いた大武は、クストージオ艦長の推薦で海軍兵学校に入学、海軍大臣を辞任したクストージオの主導で始まった「海軍の反乱」は、翌九四年三月、反乱軍の降伏により、終結。 大武は兵学校から放校されてしまう。八月に日清戦争が勃発したことから、日本に向かうが、戦争終結後に帰国したため、徴兵忌避の疑いで取り調べを受ける。同年、日伯修好通商条約が締結される。
二年後の九七年、開設された在東京ブラジル公使館に勤務、通訳として明治、大正、昭和にわたり、両国親善に尽くす。笠戸丸の送り出しのさいには、公文書関係の処理にあたっている。
その傍ら、辞典の編纂に取り組み、一八年、「葡和辞典」を出版。
二五年には、「ブラジル渡航者必携 葡語文法解説」、「和葡辞典」、二七年には、「ブラジル渡航者必携 日伯会話」と続けて、出版している。
四二年には、戦争の影響で日ブラジル交が断絶、このときまで大武はブラジル大使館に勤務している。
四四年に大武は七二歳で死去するが、父の意思を受け継いだ長男、信一は五〇年「新葡和辞典」、翌年には、「新和葡辞典」を再刊している。
ブラジルにおける日系商店のさきがけである藤崎商会は、〇六年のサンパウロ市開店後、サルバドール、レシーフェ、リオにも支店を開設、その後は農業経営も行なっている。
そして、当時の日系社会に対しても「民間領事館」の役割を果たし、様々な形で便宜を図っている。その活動は二十年にわたった。
四代目社長だった藤崎三郎助は〇六年、在ブラジル日本国公使館の堀口久萬一・一等書記官の講演を聞いたことから、ブラジル進出を決意する。
後藤武夫を含む四人が同年、ブラジルに向かう。九月には、サンパウロに藤崎商会を開設、ブラジル国内初の日本人による商業活動を展開。陶器、玩具、絹ハンカチなどの日本雑貨を販売、大盛況の売れ行きを見せ、当時の新聞にも報道される。
〇八年の笠戸丸移民が配耕されたドゥモン耕地からの脱耕者らに対し、間借り、就職の斡旋、通信、送金などの世話をし、「民間領事館」としての役割も果たした。
サルバドール(一一年)、レシーフェ(一二年)に支店、同年には、隣国アルゼンチンで活躍していた松浦吉松商会と共同で「藤松組」を設立、日亜貿易にも乗り出す。
二四年には農場を購入、三代目支配人だった後藤武夫が経営にあたる。
第一次大戦による貿易不況、世界大恐慌などの影響により支店を閉鎖、農業経営に注力する。
二六年、藤崎三郎助の死去により、土地を東山に売却、ブラジルから撤退する。
後藤武夫はブラジルに残り、東山商事と連携しながら、日系商業界の発展に尽くした。