2007年移民特集
2007年6月27日付け
「ブラジルの突き抜けるような碧い空がなつかしい」「弓場農場では蝶のおじさんだった」「移民百周年を心から祝福したい」――。歌人・斉藤茂吉を父に持ち、エッセー「どくとるマンボウ」シリーズなどで人気の作家、北杜夫さんがこのほど、ニッケイ新聞の独占インタビューに応じた。北さんといえば一連のシリーズのほかに、ブラジル日本移民の歴史を書いた長編小説『輝ける碧き空の下で』(日本文学大賞受賞)でも知られ、ブラジル日系社会でもファンの多い作家の一人だ。北さんは本書の取材のために一九七七年三月と九月の二回、ブラジルに滞在し、子どもたちから「蝶のおじさん」と呼ばれた弓場農場や高等拓殖学校の学生が入植したアマゾン地域などを訪問、現地の日本人と心温まる交流を重ねている。移民百周年を来年に控え、本書執筆の動機や取材時のエピソードなどを改めて振り返ってもらった。
移民の父・上塚周平ら=個性あふれる人物たち登場
構想十余年、ブラジル日本移民の歴史を描いた長編小説。ブラジル日本移民のはじまりである笠戸丸の入港から、日本人植民地の建設、第二次世界大戦後の日系社会で巻き起こった「勝ち負け」問題など様々なドラマを、個性あふれる登場人物たちによって描いている。移民の父・上塚周平、日本人植民地の建設に夢をかけた通訳五人組の一人・平野運平、戦前の邦字紙『サンパウロ州新報』の創業者・香山六郎、笠戸丸移民で生涯の博打打ちイッパチ、移民の草分けの一人・鈴木貞次郎など移民史上の著名人も多数登場する。新潮社から一九八二年に第一部、八六年に第二部が出版され、二千六百枚にのぼる長編だ。移民百周年を来年に控えた今、ブラジル日本移民の苦労と足跡を改めて振り返ることができる貴重な一冊。なお北氏のご好意により、近く本紙で長期連載していく予定。
ハワイやN・カレドニアで=移民の悲惨さを知る
――本書執筆の動機は。
私はまだ日本の一般の人が海外旅行に自由にいけないときに、一つは「マンボウ航海」、もう一つはポリネシアの島々の旅をしたんですね。そこでまず日本人移民が早かったハワイに渡りまして、そこには随分一世の方がいました。その方たちと話をしまして、その頃から移民のいわゆる「勝ち組」「負け組み」などで、ブラジルには太平洋戦争後もまだ日本が勝ったと信じている人や逆に「認識派」がいるという話を聞いたんです。それは内地にも伝わっていまして、内地のジャーナリストはむしろそれをからかい気味に書いた。またハワイの日系社会も安定していましたから、そこでまだ冗談めかして聞かされたんです。
タヒチに渡りましたら、タヒチの近郊の島での鉱山で働いた移民の子孫が二人、中心都市のパペーテにいまして、ちょうど人類学者の畑中幸子さんという若い女性の大学院の学生が残っていまして、彼女から島にはまだ他にも移民がいるらしいと聞いて、レンタカーを借りてタヒチを一周したんです。ようやく一人を見つけたんですけど、まぁ目も悪いし、随分なんか気の毒に感じたもので、思わず「日本に帰りたくないですか」と聞いてしまったんです。そしたら「そういうことはなるたけ考えないようにしています。どうせ実現しないことですから」と言われて、こんな質問をしたことを後悔したんです。移民の方の悲惨な面をみたのはそれが初めてでしたね。
それからニューカレドニアに渡りまして、あそこはニッケルの産地なんで、昔からかなり移民の方がいましてね。そこに日本船が州に一度やってくるんです。奥地にこんなにどんどん日本船がくるなら日本が勝った証拠だという老人がここにもいらっしゃったという話も聞きました。ただそれも冗談めかしてですけど。
ただあのニューカレドニアで墓地を訪ねましたとき、外国人の墓は白くて花が飾ってあって華やかだったんですね。それでまた日本人墓地の一角がありまして、成功者の墓は一人ずつに戒名までつけられていましたが、ただ鬱そうたる樹木の下に、成功しなかった『日本人之墓』というずいぶん大きな石碑がありまして、裏にはぎっしりと名前が書いてあるんです。三、四十名の。それを見てやっぱり悲惨だなって思ったんです。それで将来、移民の話を書こうかなって気持ちを抱きました。だからずいぶん昔の話だったですね。昭和三十五、六年くらいの話ですか。
はじめてのブラジルで=広大な土地と蒼天を見た
――本書の題名はサンパウロ州ノロエステ線から見上げた空からの発案だとか。
もちろんブラジルには非常に青い空が広がっていますよね。それで弓場農場に行ったときに、農場の女の子たちが近くで棉の実の採集をするアルバイトに行ったんです。それに私もついて行ったんです。そしたら暑いし、もぎの手伝いをしたんですけど、直に疲れたんで、畑のなかで空を見上げてちょっと寝ていたんですね。すると見渡す限りの蒼天が広がっていて、広々とした大地があって…。地図でブラジルの広さは分かりますけど、ブラジルの広さはやっぱり実際に行ってみないとなかなか実感できないんですよね。
はじめ醍醐麻沙夫さん(注1)と一緒に弓場農場に行ったときは車で一晩かかりましたから。次行った時は汽車で途中まで行きましたけど。ただなんか予想以上にブラジルの大地ってのは広くて、この広い土地にいろんな移民の人が随分昔から渡って、苦労して、まあ成功者も少しいたし、だいぶ悲惨な生活を送った人が多くて…。そんないろんな悲喜こもごもが、突き抜けるような碧い空の下で繰り広げられたんだなぁという実感から、自然に『輝ける碧き空の下で』という題名が浮かびあがったんですね。まぁその描写は第二部の一番末尾にも、佐久間四郎が日本艦隊を待っているシーンでもちょっと書きましたけど。
あとフィリピンの島で生存した日本人で、一度対談をしたことがある小野田寛郎さんがブラジルにわたって牧場をなさっていると聞いていたので、その小野田牧場にも行こうかと思ったんです。そしたらそんな所でも距離が遠すぎて私たちの日程ではとても行けないと諦めたんですよ。ちょっとの旅でしたが、そのぐらいのブラジルの広大さを実感しました。
(注1)大学卒業後、ブラジルに移住した作家。平野植民地を描いたドキュメント小説『森の夢』の著者。アマゾンの大自然を題材にした本も数多く出版。一九八〇年代に開高健さんの『オーパ!』の先導役も務めている。
勝ち負け抗争、内地では解らぬ
――移民の描写で一番気をつけたことは何ですか。
(しばらく考えてから)もちろん成功者のことも書きましたけど、むしろ悲惨なご苦労をされた方を一番の念頭において書いたと思います。それからあの「勝ち組」「負け組」。あれも内地では分かりませんから…。つまり移民の方は戦争が始まって日本にも帰れなくなって、いわば広いブラジルという牢獄に閉じ込められたんですね。そこでもしも日本が負けたと思うと、自分自身までも失ってしまうのではという、そういうことを、頭で考えるのではなくて体験として実感しましたね。内地ではとても考えられないような勝ち組がいらっしゃったようで。
ブラジルでは都会のインテリを除いては、ポルトガル語も読めないですから、日系の新聞がたよりで、その新聞も廃刊になっちゃって。限られた情報で、日本の短波放送しか聞けない。それも昔の旧式のラジオですから雑音が多くてろくに聞き取れない。それでますます情報がないんですよね。ですからブラジルの新聞がミッドウェーで日本の空母がやられた、といくら伝えても、それを読める人がほとんどいないから、日本の大本営発表を信じちゃったんですよね。小説には書いていませんが、その後も何とか宮様と称するというのがいて、献金するとか勲章を与えるとか、そんな話も聞きましたね(笑)。
笠戸丸移民に「工夫」=想像上の人物も
ー――本書では笠戸丸移民の想像上の人物で、ほら吹きの山口佐吉と心配性の佐久間四郎の描写が印象的です。
初めてブラジルに行ったときに、ブラジルには「月もスッポンもいます」と聞いたんですね。僕は初め金持ちの人と貧乏の人のことかと思ったんですが、月は持ってもいない金山の所有者だなんてほら吹いている人のことで、一方スッポンは日本に帰れなくなって必要以上に自分を卑下・悲観している人、いわばうつ病になっているタイプのことだと聞きました。
――ほら吹きの佐吉は興奮するといつも語尾に「ですぞ!」と言ってしまう。
佐吉と四郎は創造人物でしたけど、この小説はブラジル移民史のつもりで書きましたから、移民の父と呼ばれる人や移民の母と呼ばれる人、平野植民地を開いた人、香山六郎などは小説風にフィクションを使えないんですよね。作者の意図によって登場人物を動かしていくのが面白いんですけど、でもそれがなかなかできない。でも山口さんなんかは割りと面白く書けたと思いますよ。
働く婦人たちのバレエ=「やっぱり感動しました」
――移民史上の実在の人物で印象深い人はいますか。
移民の母の渡辺マルガリーダという方には二度目の取材で「憩の園」という老人ホームでお会いしたことがあります。取材を意識してから、ずいぶん昔から折りに触れてブラジル関係の本は随分集めましたけど、はじめて読んだ本が渡辺さんのことを書いたものでしたね。
あと弓場農場を拓いた弓場勇さん。彼は取材の時にはもう亡くなっていて、息子さんがやっていました。弓場農場は「働くこと、宗教すること、芸術すること」の三か条が基本で、バレリーナの人が住み着いて弓場バレエ団ができた。それで初めて弓場農場に行ったとき、私たちにバレエと芝居を見せてくれたんです。昼間は本当に畑で労働されている婦人が夜はちゃんとタイツをはいて踊ってくれて、あれにはやっぱり感動しましたよね。弓場農場は強制的に働けとは言わないで、みんな自立的に働くんですよね。ただ芸術をする人は働かなくていいんです。だからギターかなんかをやる青年がいましたけど、その人はギターだけを弾いて畑には行かない。でもその人も弓場農場の大事な要素の一つだったと思います。
弓場農場には二度行きまして、私が大人のくせに蝶ばかり追いかけているので、私は「蝶のおじさん」と呼ばれたりして(笑)。一度、弓場バレエ団が日本で公演することがあって、空港に迎えにいったら、子どもたちがいて、また私のことを「蝶のおじさん」と呼んでくれて。これには懐かしくなったりしました。
あとは高拓生の取材でアマゾン地方に行って、ようやく長い一本の突然変異のジュートを生み出した尾山良太さんの息子さんに会いましたね。それからかつての高拓生の方に案内してもらって、高拓生の本部であった八紘会館の跡も直接見ました。また高拓生二人くらいが住んでいた場所を見たりして。私が行ったところは日本人にはジュートの栽培が体力的に無理だから、仲買人のようなことをしていたとのことです。
――他にもいらっしゃいますか。
サンパウロの移民研究所(人文研)でしたかね、半田知雄さんという方にもお目にかかって『移民の生活の歴史』という本を頂いて、あの方の本が年代順に書かれていましてね、だいたい年代順の大筋にはなっていましたから、一番参考になりました。
――本書にはポルトガル語がよく出てきます。
ポルトガル語は大使の方(故・古関富彌元領事)に教わって、あとは御荘金吾さんというブラジルの取材をした方に教わりました。たしかあとがきにも書いてあると思います。
葉きり蟻にびっくり=弓場農場で実物見た
――小説内では動植物の描写が詳しくありますね。
私は昆虫好きで、知識としては葉きり蟻などは子供のときから知っていました。でも葉切り蟻の実物を見たのは弓場農場です。弓場農場で葉きり蟻はいますかと聞いたら、「夜になると出てくる」と聞いて、夜に見にいったんです。そしたら懐中電灯のなかで無数の蟻が葉をかついて歩いているんですよね。あれには一驚しましたね。
――『どくとるマンボウ昆虫記』という本も書かれていますね。
中学のときには昆虫好きもあって卒業近いころには百箱くらいの標本を集めたんです。でもそれは空襲でみんな焼けちゃいましたけど。それでその後、信州の松本高校でまた採集をしましたけど、そのうち医者になってから標本をつくる暇がなくなって。それでもたとえば沖縄や外国などに行くときなどに少しずつ採ってきたりしました。だからブラジルに行ったときは自然と虫を追っていましたよ(笑)。
日本人を誇りにしている移民
――取材時に精神科医として考えさせられたことは。
やっぱり日本人であることを誇りに思っている移民の方が多かったですね。はじめマナウスの領事館に呼ばれて、なるたけ老人たちを集めておいて欲しいと頼んでいたんですが、そのときに一人の方が「不肖ながら大宅壮一先生の本の一説を引用させて頂きます」と言って、アマゾン地方に日本人が入って、ピメンタやジュートの栽培に従事して、ブラジル社会に一目置かれながらも苦労して、かつて〃緑の地獄〃と呼ばれていたアマゾン地方が我々日本人の手でようやく明るい光がさしているということを朗読されたんです。やっぱりご苦労とともに自負をお持ちだったと思いました。
――第三部を予定していた本書は第二部で終わりましたが。
私が取材に行ったのは、もう少し経つと移民七十周年という時でした。日系社会の安定ということで、そこまで書きたいと思ったんですけどね。でも最後はちょっと悲劇的なほうで終わらせたほうがいいと思って、第三部の安定期の話を諦めたんですよね。むしろ成功談ってのは小説では軽いから、第二部で悲劇的なままで終わらせてよかったと後では思いました(注2)。当時はちょっと残念でしたけど。やっぱり日本人の成功例までは書きたいと思っていましたから。でも小説としてはこれでよかったと思います。
――本書で書けなかったエピソードはありますか。
昔ブラジルに駐在したポルトガル大使の息子さんが、ブラジルの将校の娘さんと恋仲になって、結婚しようとなったんですが、そのあと自殺してしまうという話を聞いたんですね。でもそれは奥様が息子のことをあまりに悲しいことなので「書かないでくれ」っておっしゃったこともありましたよ。
(注2)本書のおわりは創造人物で笠戸丸移民の佐久間四郎が帰国詐欺にひっかかるくだりで終えられている。
――ところで来年は移民百周年ですね。
私も懐かしいですし、心から祝福したいですね、やはり昔の方のご苦労は忘れてはいけませんですよね。私も移民七十周年記念の時は向こうの人から新聞を送ってもらって大分知っているんですが、私も年をとって、ブラジルのことをあまり考えないで暮らしてきました。娘がブラジルから帰ってきたときに来年が百周年と初めて知ったのです。かなりブラジルのことに関心を持っていた私がこんなんですから、内地の人はほんと百周年に無関心だと思いますね。それはほんと残念なんで、なんとか、新聞社などに働きかけてだんだんと宣伝をしていけたらいいですね。
デカセギ犯罪、原因は貧困=定住者、寛容に迎えよう
――日本のメディアでは最近、デカセギ犯罪帰国逃亡事件などをニュースでよく取り上げています。
やっぱり一番の根本の原因は「貧困」ではないですか。アメリカでも、私の後輩なんかは庭に花を植えたりして、また近所でお互いにパーティーをしたりしているけれども、黒人がその地域に住み着くと、花どころじゃなくて、交流もするわけでなくて、みんな嫌になって引っ越してしまう。それで黒人がまたその地域に来て、小さなスラム街になるという話を聞きました。
あとNASAを取材したことがあったんですが、そこでは地位も給料も安定するから、黒人たちも実に生き生きとしていましたね。ですからこれも貧しさが一番の原因だと思います。
それから日本人の中でも、つまり途上国の人なんかを馬鹿にする風潮があることも確かですね。私の自宅の隣にある娘夫婦の家を建てる時、インド人の労働者が働いていたんですけど、その人はいつも会うとニコニコしていい男なんですけどね、それを日本人監督はいじめるんです。「あのやろー、気がきかねぇ、どうせ怒ったって言葉はわからねえだろうしな」と言って…。それで気の毒になったことがありました。
あとニューヨークにいた私の医者の後輩は州立の病院に勤めていましたけど、やっぱりイエローだと差別されて、黒人だと二倍勉強しないといけないと言っていましたよ。
――最近はポロロッカのように日系人が日本に定住するようになっています。
それは親切に迎えないといけないでしょうね。日本人ってのはあまり寛容ではないですね(笑)。なんか理論的に考えるよりも単に心理的・感情的にものごとを判断してしまうので、つい私たちと違うということで蔑視したりしてしまう。これも日本人が他の国の人よりも外国をよく知らないからではないですか。
日本人は外国に渡っても言葉を覚えるのが他の外国人より下手。これは確実ですね。ですからはじめ、日本人移民がコーヒー園なんかでも良い仕事をイタリア人に取られるってことがあったんですよね。私も昔、英語がぜんぜんできなかったもので、外国に行ったときは大変苦労したんですよ(笑)。
ブラジル行きたいけど=腰が痛くて無理です
――娘の斉藤由香さんが今年三月に訪伯してブラジルに興味をお持ちになったと聞いています。
娘は本もあまり読まないし学問もないけど、体力はあるんですよね。私の母は非常に好奇心が強くてあちこち行きまして、その隔世遺伝を少し持っているみたいですね、やたら旅行が好きなんです。それがいいと思いますね。娘にはブラジルのことは話をしていましたけど、彼女がブラジルに発つ前にはこの本(輝ける―)だけは読めっていいました。この本も読んでいなかったでしたから。
――北氏のお母様は南極にも行かれているとか。
母は七十歳のときに南極に行きましたね。私がブラジルにいっている間も、母はいつのまにかチチカカ湖を訪れて、船から落ちたなんて話を日本に帰ってから聞いて、あきれちゃったんですよね(笑)。
――由香さんは来年、「父をブラジルに連れていく」と話しています。
行きたいのは山々ですけど、振動があると腰がひくくと痛くて、さすがに無理ですね。
昔のんべ今缶ビール1個
――最近の趣味や好きなことはありますか。
たばこも自然にやめましたね。昔はずいぶんヘビースモーカーでした。それで酒も随分のんべだったんですけど、それも自然と落ち着いて、ビールは一日一缶です。それだけ代謝が少なくなったんですよね(笑)。
――熱狂的な阪神ファンと聞いています。
昔はそうでしたけど、今はあまり関心はございません。私がプロ野球を知ったころは、タイガースがいわゆる「ダイナマイト打線」と呼ばれた時代。藤村とか金田とか、強力打線がいて、すぐ主導権をとったんですけど、投手陣がやばくて、逆に六点くらいとられてよく負けちゃったですよね(笑)。
―自宅の入り口に野球用のネットがありました。
あれは孫のですね。孫は一人なんですが、もう高校生になっちゃって、だからもうあんまり可愛くないですね(笑)。
直感信じて生きてきた=ユーモアが私の特徴
――これまでの人生で一番大事にしてきたことは。
私はあまり論理的な頭脳は持っていないんですよね。むしろ一般人よりも知能は低いかもしれない。ただ直観力だけはあるんですよね。芥川龍之介も「私は神経だけの人間である」と書いていますけど、むしろ頭で考えるよりも自分の直感で信じて生きてきたつもりです。外国を見るのも何でもですが。僕は論理的にやろうとしてもできないんですよね。
あとやっぱりユーモアが私の特色だと思います。ユーモアというのは、ラテン語でもギリシャ語でも、もとの意味は「体液」っていう意味で、その体液がないとユーモアに関する本をいくら読んでも、ジョーク集を読んでも、ほんとは身につかないんですね。だから自ずからなるユーモアが一番ほんとは大事なんです。頭で考えてはだめですね。でもこれは人それぞれです。
それから私は昔、躁鬱病が随分ひどくて、朝から夕方までほんと気力がないんですね。薬も飲みましたけど、時期がくれば自然と直るもので、じっと寝ている。これは世間のうつ病患者には案外わからないことで、もがいてしまう。人類最大の箴言というのは、「己自らを知れ」っていうことですが、これが一番難しいですね。
――最後になりますが、これからどのような気持ちで過ごしていきたいですか。
それはもう何というか、自然死を待つだけですね、それが本望です。ただ寝たきりだけにはなりたくないです。
◇プロフィール◇
北杜夫(きたもりお、80、本名・斉藤宗吉)。作家・精神科医。一九二七年生まれ、東京都港区出身、東北大学医学部卒。父は有名な歌人、斉藤茂吉。昨年十一月に九十歳で亡くなった実兄の斉藤茂太は精神科医・エッセイストとしても活躍。娘には『週刊新潮』などでエッセーの連載を持つ自称「窓際OL」の斉藤由香がいる。一九六〇年に『夜と霧の隅で』で第四十三回芥川賞を受賞、水産庁の漁業調査船の船医として世界を回遊した記録を綴ったエッセー『どくとるマンボウ航海記』(1965年)など、一連のマンボウシリーズで有名。父・茂吉の評伝を書いた四部作などを含め、著書は多数。幼少期から昆虫類をはじめ動植物への造詣が深いことでも知られる。壮年期には躁うつ病を患うが、その自身の体験や症状などもエッセーであっけらかんと紹介している。現在、東京都世田谷区在住。