2007年7月18日付け
ふるさとの郷愁にかられる地――笠戸丸移民が配耕され、移民ゆかりの地として知られるグァタパラ。同農事文化体育協会(川上淳会長)は、移住地入植四十五周年記念の慰霊祭と記念式典を、十四日、それぞれ共同墓地、中央公民館で開催した。サンパウロ、ブラジリア、遠くはヴァルゼア・アレグレからもグァタパラに思いのある人たちが参集し、開拓当時の記憶に思いを馳せるとともに、家族や旧知の人たちとの昔話に花を咲かせた。四十五周年を記念して、文協は中央公民館横に体育館を新設。当日は青空が広がる心地よい晴天のもと、慰霊祭、式典、展示会、演芸会、盆踊りと終日催しが行われて、なごやかな雰囲気の中、節目の年を祝った。
「大体毎年帰ってくるよ。なじみの顔がいるからね」。サンパウロから訪れた小山徳さん(66)は、懐かしそうにあたりを見廻していた。中央公民館には鯉のぼりがあげられ、早朝から式典の参加者や準備をする関係者でにぎやかな様子。午前十時に共同墓地で慰霊祭が始まった。
西林万寿夫サンパウロ総領事夫妻、野末雅彦JICAサンパウロ支所次長、E・エジノ・ダ・シルバ・グァタパラ市長、馬場光男TATAKサンパウロ事務所長らが墓地を訪れ、神式慰霊ののちに、共同祈願、献花、焼香。
同移住地を造成する際尽力した南米産業開発青年隊の面々もサンパウロからバスで駆けつけ、百人以上が先没者の冥福を祈った。
その後、中央公民館に戻り、記念式典。上原幸啓文協会長、松尾治県連会長、坂和三郎援協副会長らが加わった。川上会長は「グァタパラでは、子弟教育と文化伝承に力を入れています。先人の歴史を学び、明るい未来の建設を目指す」と、将来の展望を示して挨拶した。
西林総領事は、小泉純一郎前首相がグァタパラを訪れたことにふれ、「長い歴史を残すことは、若者が日伯関係を築く上での指針となる。〇四年の感動を胸に今後も励んでほしい」と、祝いの言葉を述べた。席上、茨城県知事のメッセージも代読された。
続いて、「続く少子高齢化、デカゼギ現象の歯止めをかける」として建設された体育館のテープカットと祝いの鏡割り。真新しい体育館内には、グァタパラ産の野菜、卵、果樹や穀物、盆栽や花卉、手芸品と日本語学校生徒の絵画など作品がずらりと展示され、来場者の目を楽しませていた。
「ここは私の第二のふるさと。とにかく(昔は)地獄だったのだから、実際に現状をこの目で見たかった」と、サンパウロから駆けつけた内山雅満さん(85)。カナーンを経てジュキアに入植し、グァタパラを訪れたいと長年思ってきた。「懐かしいね。昔の郷愁は忘れられないよ」と、にぎわいを嬉しそうに見つめていた。
会館外では、文協青年部が折り紙教室を開いて多くの子供たちを集め、公民館では午後から演芸会が行われた。七百五十席の屋外スペースは人で埋まり、公民館は演芸をのぞく人々で、入り口まで観客があふれていた。
「中央公民館、プール、日本語学校、野球場、サッカー場があって、農機具の貸し出しもあるし、医療面の世話も文協がやっているからね」と、新田築同文協副会長は、誇らしげに文協の事業を説明する。二百平米の土地を貸し出した賃料で多くの費用をまかない、深井戸も管理している。「戦前の歴史を中心に百周年史を作りたかったけどね。次は、移住五十周年史を日ポ両語で作る予定です」。
婦人部が夕食まで用意し、盆踊りや青年部によるマツリダンスで記念行事は夜まで続く。ヴァルジェン・グランデから十二時間かけて帰郷した鈴木重男さん(56)は、六二年に第一陣で入り、十二年間をグァタパラで過ごした。「湿地帯で米も植えてたけどね~。今はカンナと牧草地。当時からは変わってしまったよ」といいながら「でも、行事のたびに集まる、この仲間は同じだな」と笑顔を見せた。