2007年7月19日付け
【エスタード・デ・サンパウロ紙十八日】TAM航空のエアバスA―三二〇型機が十七日午後八時三十分、コンゴーニャス空港滑走路からオーバーランし、乗客と乗員一七六人を乗せたまま付近の建物とガソリン・スタンドに衝突炎上した。十八日朝までに三十二の遺体が確認されたが、生存者は絶望視されている。さらに付近のワシントン・ルイス大通りを通行中に巻き添えにあった犠牲者も多数にのぼるようだ。滑走路は改修直後で路面がなめらかな上、折りからの雨で濡れていた。機は離陸しようとしたが、失敗した可能性が高い。
事故は、ブラジル航空史上空前の大惨事となった。ポルト・アレグレ市発サンパウロ市行きのエアバス機は着陸後、停止できないままオーバーランし、ラッシュアワーで渋滞していた付近の大通りを通行中の乗用車と接触後、墜落炎上した。
同空港では四十八時間内に、大小三件の事故が起きている。パンタナル航空の小型機ATR42が十六日、同滑走路でスリップし、脇の芝生で停止した。その数時間後、TAM航空機が危機一髪で停止した。
関係者は、滑走路の排水装置が未完成であることを指摘した。滑走路は路面修復が終わり、グルービングという水はけ用の溝をつけるため乾燥を待っていた。三センチ間隔で六ミリの溝を切り込み、水はけとスリップ防止をする。
航空機が突っ込んだ建物はTAMの物流センターで、一、二階の一部が崩れ、炎に包まれた。事故当時、建物内で五十人が就労していた。乗客の中にはレデッケル下議(ブラジル民主社会党=PSDB)やサッカーチーム・インテルの元役員アモレッチ氏などがいた。
ルーラ大統領は事故後、急きょ予定を変更し、緊急対策本部を設置した。犠牲者の霊を偲び、三日間の喪に服すことを決めた。セーラサンパウロ州知事は、惨事の原因解明が終わるまで、同空港を閉鎖する意向を表明した。
同地域の住民には一九九六年十月に九十九人の犠牲を出したTAM航空Fokker一〇〇の墜落事故の惨事が悪夢として焼きついている。同空港の発着数は日増しに増加の一途にあり、空港管理の改善が日常業務に間に合わないらしい。
空港整備公団(Infraero)の統計によれば、コンゴーニャス空港を利用する乗客は、過去十二カ月間に一二〇〇万人から一八〇〇万人へと五〇%も増えた。一日の発着数は六三〇便でサンパウロ国際(クンビッカ)空港の四三〇便を超え、南米一忙しい空港である。
滑走路の保全は突貫工事で行われ、六月十九日に路面の修復が終わった。滑走路の利用頻度が高い空港なので、スリップ止めと水はけのグルービングは、発着が一時休止する夜中しか工事ができない。
コンゴーニャス空港は、滑走路が一九四〇メートルしかなく、小・中型機専用の空港として機能している。高層ビルをかすめるような難しい着陸や濡れると滑りやすい滑走路などパイロットには評判が悪かった。空港当局が過去の教訓を生かせなかったことが悲劇を招いたのは、否定できない。