2007年8月14日付け
サンパウロ州ドウラード。サンパウロ市から二百八十キロ、アララクアラの西方六十キロにあるこの小さな町の墓地に、小さな堂が建っている。中には、日本語で書かれた数十の位牌。かつて希望を胸に海を渡り、同地へ入り、そして夢なかばで亡くなった移民たちのものだ。日本人のいない町には、その意味を知る人もなく、堂は今もひっそりとたたずんでいる。まして、それらが九十年近くも前のものだとは知る由もない。一人の日本人が、墓守ならぬ〃位牌守〃を続けているという。ドウラードへ向かった。そこには、歴史の影に隠された初期移民の苦闘と、地元日系人の先人への思いが刻まれていた。
サンパウロ州のほぼ中心に位置するドウラード市。人口一万人ほどの小さな町だ。外れにある市営墓地に入ると、二十メートルほど先に位牌堂はあった。
約三メートルの堂の上部に建つ墓石には「南無阿弥陀仏」の文字。高さ、奥行き一メートルほどの空間に、木で作られた、質素な位牌が三十余り納められている。
その一つのひときわ大きな位牌には「ファゼンダ・サンタコンスタンサ耕地に於て死歿者三十七柱 諸霊位に捧ぐ」の記述。奥の壁に掛けられた木板に、この位牌堂の由来が記されていた。
木板の記述によれば、これらの位牌は一九一三年(大正二年)に第四回移民船「雲海丸」で移住、同耕地に入った日本移民のもの。
乗船者約二千人のうち、愛媛県人三十六家族、広島県人十六家族の計五十二家族が、日本移民開始当時のサンパウロ州農務長官だったカルロス・ボテーリョ氏所有のサンタ・コンスタンサ耕地へ配耕された。しかし、衛生不良による腸チフスの蔓延で、わずか半年の間に多数が亡くなった。木板には「抵抗力の弱い少年少女は相次いで倒れ」と当時の悲惨な状況が記されている。
木板の文字は長年月のうちにかすれ、判読が難しい部分もあるが、位牌堂はこれら犠牲者を弔うため一九一九年(大正八年)、地元有志により建立されたものであることが分かる。
〃位牌守〃を続けているのは、アララクアラ在住の野口明石さん(61、熊本県)。一九五九年に十三歳で家族と渡伯した野口さんは聖郊のコロニア・パウリスタを経て六四年、ドウラードのファゼンダ・サンタ・クララに入植。五年を同地で過ごし、現在はアララクアラで養鶏を営んでいる。
ドウラード入植当時、町には野口さんを呼び寄せた一組の日本人家族と、鶏の雛鑑別士の青年がいただけ。野口さんはその後、同地を離れてからも、知人の墓があった関係で位牌堂を訪問。知人の墓が移された今も訪れている。
すでに三十年以上になる。今では墓地の管理人以外、世話をする人もないようだという。
現在の位牌堂は約三十年前に新装されたものだ。地元日系人の思いが、埋もれつつあった無縁仏に光をあてたのだった。
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九十年余り前に亡くなった日本移民の位牌が、その意味を知る人もない町の墓地に、今も残っている。
木板の記述を頼りに、雲海丸の移民原簿を調べた。
記述にある「雲海丸」は、竹村殖民商館の第四回移民船として一九一三年五月七日にサントスへ着いた「第弐雲海丸」。笠戸丸から五年後、通算で五回目となる日本移民船だった。四百三家族、千四百七十一人。福井、福岡、愛媛、熊本、高知、広島、長崎からの移民が乗船していた。
サンタ・コンスタンサ耕地へ配耕されたのはそのうち、愛媛県人三十五、広島県人十八家族の計五十三家族で、二百人余り。通訳兼支配人は、後にプロミッソンへ移り上塚植民地発展に貢献した間崎三三一氏(六三年死去)。
入植者のほぼ半数が十代の少年少女。原簿には配耕初年の一三年から翌年にかけて十九人(約半数が十代)が亡くなったことや、家長に先立たれた家族が翌年に「救助帰国」したことなど、初期移民を襲った悲劇の痕跡がとどめられていた。
記載された死亡者の名は、今回の取材行で撮影した位牌に残されていた。どこに埋葬されたのか、それは今も分かっていない。
(つづく、松田正生記者)