2007年8月15日付け
ドウラードに眠る初期移民~日本人位牌堂を訪ねて=連載《下》=耳に響いた〝慟哭の声〟=埋もれた歴史に光あてる
はじまりは、ドウラード墓地の近くで農業を営んでいた鈴木保重氏(リオ・ボニート在住)が「慟哭する声を耳にしたので不思議に思い」、墓地内の位牌堂の存在を知ったことだった。
時は一九七四年。鈴木氏をはじめとする隣市サンカルロスの日系人の熱意によって堂は新装され、埋もれつつあった初期移民の悲劇は現在まで伝えられることになった。
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一九年の位牌堂建立後、同耕地の入植者は四散。位牌の文字はかすれ、その由来を伝える人もないまま、半世紀以上が過ぎていた。
「浮かばれない死霊がある事に気がつき慰霊堂建立を発心」した鈴木氏らサンカルロスの有志七人は調査を開始した。
堂の新装をめぐるいきさつを、当時のパウリスタ新聞が伝えている。
それによれば、位牌堂は間崎氏が耕地を離れる際、寄せられた餞別を辞して建てられたものだという。記事は伝える。
「同年雨期とともに、悪性の腸チブスがまん延、抵抗力の弱い年少者の命をつぎつぎにうばい、入植半年後には二十七人の犠牲者を出した。家族によっては一日の内に三人の死者があり、サッコの布で丸めて埋葬したといわれる。 一九年にはスペイン風邪が流行、この時にも多くの死亡がドウラード市役所の死亡者台帳に記録された。」(七四年十月五日付け、原文ママ)
調査をはじめた鈴木氏らだったが、位牌の文字は判読不能。当時の入植者が残した「位牌について知りたい人は広瀬与市さんを訪ねられたい」との置手紙を頼りにアチバイアの同氏宅を訪ねたが、すでに広瀬氏は亡くなっていた。
総領事館の乗船名簿から愛媛、広島県人の名をひろい、県人会へ問い合わせたが不明。登記所の死亡者台帳でも確認できたのは数柱のみだったという。
調査は数カ月、車両走行四千キロ余りに渡った。当時プロミッソンで健在だった間崎氏の未亡人や松岡哲三郎、松島長夫氏という人物を訪ね、耕地の悲惨な情況については知りえたが、物故者の名は不明のままだった。
一度は文字確認を断念した。ところが、氏名不詳のまま慰霊祭を開こうとしていたある日、堂塗り替えのため墓地へ行くと、位牌の文字がかすかながら読めるようになっていたという。
「忽然と霊位が浮び上る様に顕現したのであります。時正に一九七四年九月九日午后二時のことでした」。三十年前の木板に、関係者が遭遇した〃奇跡〃の様子が記されている。
三十七人の氏名は判別され、同年十月二十日、同墓地で慰霊祭が挙行された。パ紙の記事によれば二百人余が集まったという。
慰霊祭の後、堂には、両面に由来と調査の経緯を記した木板が残された。鈴木氏と共に、板には調査記録係として「小川正幸」という人物の名が記されている。しかし三十年余りが過ぎ、当時の関係者も多くが鬼籍に入ったと思われる今、これらの人たちについては分かっていない。
九十年近く昔に死者の霊を悼み、堂を建立した初期移民の思いと、埋もれつつあった歴史を今に伝えた地元日系人の熱意。「日本人は尊いですね」、今も年に一、二度墓地を訪れるという野口さんは、ぽつりとつぶやいた。
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「亡くなった人たちは、ここに埋葬されたんじゃないかと思うんですよ」――。ドウラードを訪れた日、共に向かったファゼンダ内の市営墓地で、野口さんは話した。
農地の一部を三十メートル四方ほどに区切った荒涼とした空間に、十数基の墓碑が点在する。日本人の名を記した墓碑などない。が、野口さんによれば、当時周辺のファゼンダは全てカルロス・ボテーリョの所有だったという。数キロ離れた耕地から墓地まで運び埋葬したとの推理だが、確かなことは分からない。
墓地へ案内してくれたのは、同市在住のベネジット・レアンドロさん(75)だった。約三十年間市役所に勤めたベネジットさんによれば、当時の死亡者台帳にあるのは死者の名前だけ。苗字も、埋葬場所も記録されていないという。
病魔に倒れた日本人たちは、墓標もなく、ここに眠っているのだろうか――。九十年が過ぎた今となっては永久に謎のままだ。それでも、墓地へと至る山道を眺めながら、坂を下り上りして死者を運ぶ移民の葬列が目に浮かぶような気がした。
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同市周辺に日本語を読む一世はほとんどいない。それでも今なお、初期移民の苦闘を伝える位牌堂は、インテリオールの乾いた日差しに照らされながら佇んでいる。
「この板を誰か書道の達者な人に見てもらって、きれいにしてもらおうと思うんです」、文字のかすれた木板を手に、野口さんはそう話した。(おわり、松田正生記者)
ドウラードに眠る初期移民~日本人位牌堂を訪ねて=連載《上》=サンパウロ州=4回移民37柱を祀り=〝位牌守〟続ける野口さん