2007年8月29日付け
日本を「祖先の国」とするブラジル日系社会の一部が日本へ渡り、ブラジルを「祖国」とする在日ブラジル人社会が生まれた。「祖父の国へ戻った」形ではなく、あくまで「外国人が日本へ行った」という形で定着、成熟しつつある。
「服はブラジル製じゃなきゃだめ。飲むならコーラよりグアラナです」。毛利よしこシスターは在日社会内の雰囲気をそう説明する。デカセギには、ブラジル人アイデンティティを強める方向性が強く働いている。
振り返ればブラジルにきた日本移民は異文化接触の毎日の中で、本国よりも強い日本人アイデンティティを育んだ。「やっぱり自分は日本人だ」「日本だったらこうするはずだ」。そんな会話を繰り返す中で、自然と背中に日の丸を背負った意識が日常化した。在日コミュニティとは、鏡返しの関係といってもいい。
講演者の一人、日本で大学を卒業した宮ケ迫ナンシー理沙さんに、県連日本祭りを初めて見た感想を尋ねたところ、「なんか妙なんです」と腑に落ちない表情で語った。この違和感の源はなにか――。在日コミュニティ内の雰囲気は完全に「ブラジル人」「ブラジル向き」であり、県連日本祭りでは逆方向ともいえる「日系人」「日本向き」を強調した雰囲気だった。
宮ケ迫さんは、同じブラジル日系社会の一部なのに、まったく方向性が違うことが、にわかには納得できない様子だった。
この視点は、今まであまり論じてこられなかったが、多様化した日系社会を認識するための重要な切り口を含んでいる。
日本からの視察団メンバーは口を揃えて問う。「ブラジルで日本移民は最初に日本語学校を作ったが、日本にいる日系人はなぜ教育に関心が薄いのか」。
デカセギが本格化したのは九〇年だ。ブラジルでは『失われた八〇年代』からコーロル・ショックの時代で、中産階級にいた多くの日系人が没落、訪日せざるをえない経済情勢だった。
九四年にレアル・プランが導入され、情勢はかなり変わった。訪日していた第一世代も四年、五年と過ごす中で計画性をもって資金を貯めていたものは帰伯する段階になった。
この第一世代までは比較的日本文化に親しんでいた層、日系社会の中心部に近い層、人材派遣会社が集中するサンパウロ市近郊出身者が主軸となって訪日していたと推測される。日本では次々に新しい働き手が必要となったが、第一世代は徐々に高齢化したこともあって多くが帰伯した。
困った派遣会社は、日系社会のより外側の層に声をかけないと訪日就労者を集められなくなった。それまで日系団体にまったく接触していなかった層が、第二世代として訪日しはじめるが九〇年代後半だ。ブラジル経済は安定し始め、中産階級であれば食べるのに困る状況は減りつつあった。
血縁的には日系だとはいえ、外側へ行くほど日系意識が薄れた集団となるグラデーションを自然に描いている。外側へ、外側へという訪日者の質的変化を繰り返した結果、在日コミュニティはより日系色を弱めた雰囲気を持つようになったのではないか。
これは、良否を比較しているのでなく、単に質が変化したとの意味だ。全ての物事には必ず両面がある。単に日系社会の多様化を説明しているにすぎない。
日本から来た視察団が接するような日系団体は、いわば日系社会の中心部にある。そこに所属する二世、三世層は、ほとんどが中産階級といっても異論はない。つまり、おなじ日系社会の一部とはいえ、訪日層とは違う社会階層だ。
百年で一四〇万人まで増えた日系社会だが、同時に階層分化し、多様化もした。日系社会内では「若者の日系団体離れ」が叫ばれて久しいが、離れていった者たちが外側の層を形成している。人口比では外側の方が遙かに多いが、邦字紙にすらほとんど出てこない〃沈黙のマジョリティ〃だ。
日系社会から離れていたこの層は「ブラジル人」と自己認識しているが、日本では〃日系社会の一部〃とのイメージが強く、日系社会の内側と外側を比較するような認識のズレを生んでいる。
ブラジル自体が「Brasis」(Brasilの複数形)と文化人類学者から表現されるように、実に多様な社会から構成されている。その一部たる日系社会が多様化しても何の不思議もない。
日伯どちらかだけを見て、日系社会を単純に語れない時代になってきた。
(つづく、深沢正雪記者)
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