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63年第2トメアスー移住地入植者=母親が帰国船上から投身自殺=3遺児日本で健在=HPで同船者と〃出会い〃=「慰霊供養に来伯したい」

ニッケイ新聞 2007年9月11日付け

 一九六七年、トメアスー移住地で夫に先立たれて途方に暮れた若妻は、国援法適用を受けての帰国途中、幼児三人を残して、あるぜんちな丸から海に身を投げた――。悲惨な移民の生活を彷彿とさせる悲話だが、このほど、孤児となった三兄姉妹が今も日本に健在であることがわかった。あるぜんちな丸第十二次航(六二年)の同船者らが作るホームページ『私たちの四十年』がきっかけとなり、日本にいる富田裕之さん(45)、富田礼子さん(42)と美代恵さん(40)、出来事に居合わせたスチュワーデス、同船者らが連絡を取り合い、当時の状況やその後の経緯などを調べている。礼子さん、美代恵さんは「亡き両親の慰霊供養に渡伯できれば」と、将来の希望を話している。
 一九六三年に、富田昭一さんと再婚して第二トメアスー移住地に入植した富田敏子さん(当時21、栃木県出身)。六七年五月、本格的にピメンタの採取を始めようとしていた前年に昭一さんを肝臓ガンで亡くし、敏子さんは、裕之さん(当時5つ)、礼子さん(当時2つ)、美代恵さん(当時9カ月)の三人の子供を抱えて生活に困り、帰国を決めた。
 同年八月七日、一家を乗せたあるぜんちな丸はベレン港を出港。その四日後、敏子さんは、子供らに「こちらに来るんじゃありませんよ」と言い、財布を渡すと、サンダルを並べて船の後部甲板から投身した。遺体は二時間後に引き上げられ、レシフェ沖だったため、レシフェ総領事館などの手で同地に埋葬された――。
 それから時は流れ、今年の七月十日。富田礼子さんが、偶然にもホームページ『私たちの四十年』を見つけ、嬉しくなり投稿を行ったことで、今回の〃出会い〃が始まった。
 礼子さんは「私の両親は昭和三十七年頃にブラジルに移民として渡りました」と自身の生い立ちを紹介し、「今でこそ日本で元気に暮らせるのも、ブラジルで頑張った父と母のお陰と感謝しています。当時の父と母が暮らしたブラジルに行くことが今の私の夢です」。
 礼子さんの投稿を読み、ホームページを管理している和田好司さんは驚いた。六七年に商船三井のスチュワーデスとして、あるぜんちな丸に同船していた山添洋子さん(京都在住)から、富田さん一家の出来事を聞いていたからだ。
 以降、和田さん、礼子さん、美代恵さん、山添さんや同船者仲間、トメアスー在住者も加わり、「投稿の話」は膨らんだ。遺児三人の現状、あるぜんちな丸での敏子さんの様子、現在のトメアスーなど、それぞれの知る情報を互いに書き込んだ。
 礼子さんは「つい軽い気持ちで開いたページがまさかこんなに深い出会いに繋がるなんて」と感激を話し、「幼かった私たち兄弟は、両親の生き様を知ることもなく、ただ手元に残されている写真だけでした」「顔も声も知らなくて(中略)当時の話も本当に知りたくて、両親を少しでも知っている人に会いたくて仕方ありませんでした」。
 敏子さんの遺骨は、何年か前に裕之さんが栃木県にある墓へ持ち帰ったが、昭一さんの遺骨は、今もトメアスー北部の市営墓地に眠っている。
 美代恵さんは「母は一人、淋しく逝ったのだという想いがありましたが、あれだけ沢山の人々に携わって頂いていたのですね(中略)。亡き両親、亡き移住者全ての方々の慰霊供養という想いを込め、姉と一緒にブラジルに行けたらと願っています」と話している。
 『私たちの四十年』のホームページアドレスは、http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/index.php。ポルトガル語版も整備されている。