ニッケイ新聞 2007年9月26日付け
ブラジル日本人移民百周年を来年に控え、一九〇八年の第一回笠戸丸移民が配耕された六耕地のうちの一つ、グアタパラ耕地に関する調査・執筆を独自で行い、まとめた人がいる。グアタパラ移住地在住の林良雄さん(56、茨城県)だ。養鶏業を営む傍ら、六年の歳月をかけ、一人コツコツと移民史の掘り起こしに努めてきた。「足りない部分もあると思うのでみなさんに指摘してもらいたい」と謙虚な姿勢を保ちつつも「百周年にまとまった形で出版できれば」と意気込んでいる。
「旧仮名には泣かされました。やはり、日本語は難しいですね」。
よく日に焼けた精悍な表情を緩ませる林さん。その話し振りからも実直な性格がにじみ出る。
グアタパラ移住地への第一回家族自営農として一九六二年一月、十一歳で移住。以来四十五年間、移住地の一働き手として貢献してきた。現在は養鶏業を営む。
同移住地は、笠戸丸移民が配耕された旧グアタパラ耕地(Fazenda Guatapara)内の土地に、戦後新たに造成。直接の関係はないものの「年齢を重ねるにつれ、初期移民についての興味が高まった」(林さん)。
そのきっかけとなったのは、七七年の同地入植十五周年記念事業「拓魂碑」建設に精魂を傾ける父富男さんの姿からだという。
同事業の委員長を務めた富男さんは元満州開拓移民。引き揚げのさい、林さんの実姉である娘を亡くし、遺骨を持ち帰っている。そして、多くの同胞を土まんじゅうのまま残したことを「心から悼んでいた」父の姿が記憶に強く残っていた。
そんな家族の歴史もあってか、同耕地の旧墓地に無縁仏として埋葬された四百柱の名前やその歴史を風化させてはならない、という思いが強まった。
以降、意識してグアタパラ耕地を中心にした移民の歴史に関心を払ってきた。
本格的に取り組み始めたのは、〇二年から。閑期のない養鶏業を営む傍ら、時間を縫ってモジアナ近郊を歩き、資料を収集、証言を拾って歩いた。
「耕地から出た人はどこに行ったのだろう、と思いまして。まあ、野次馬根性的な好奇心からですよ」と自嘲気味に笑うが、現在では「部屋一杯の資料がある」。
一昨年、手書きで原稿をまとめた。コンピュータ入力を頼んだ娘さんの「このさい、覚えてみたら」との言葉に一念発起。持ち前の好奇心も手伝って操作を覚え、一カ月かけ、キーボードを叩いた。
同耕地だけに留まらず、耕地からの退耕者により建設された東京・平野両植民地にも触れ、モジアナ地方の日本人が関わった植民地、配耕先、入植者名簿なども列記、資料としての価値も高めた約二百頁だ。
「(かつて奨励された)グアタパラ移住地の稲作も東京植民地のものが基礎となっているんですよ」。
地図上では、点でしかない日本人移民の配耕先。しかし、移民の移動と情報の伝播を線で繋げば、その相関関係が浮かび上がってくる。表題「〃我が〃グアタパラ耕地」には、そんな思いが表れているようだ。
「関心のある人には読んでもらいたい。触れていない史実や間違いは指摘してほしい」と林さんは話し、グアタパラ耕地、モジアナ沿線の日本人移民の歴史検証に万全を期したい考えだ。
林良雄さんの連絡先は、電話=16・3973・0273。mitsuuroko10@yahoo.com.brまで。