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ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組=新社会の建設=創設者の光と影=下元健吉没後50周年=連載《第3回》=3種類の下元論=アンチ派、敬遠派、敬愛派

プレ百周年特別企画

2007年9月28日付け

ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第3回》=3種類の下元論=アンチ派、敬遠派、敬愛派
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)

 下元は、背丈は百五十七センチで、当時としても低い方であった。が、ガッシリした体格であった。少し前かがみになってガニ股で歩いた。格好は悪かった。
 顔は……この人には、三つの顔があった。一つは仕事の場での顔で「そばに寄ると、噛みつかれそうな感じだった」という。
 言葉使いは荒削りで、怒りやすく、頭ごなしにモノを言い、雷親父の異名もあった。時に暴言を吐いた。その暴言が暴行に変化することもあった。
 二つ目は仕事を離れた私的な場での顔で、穏やかそのもので、いつもニコニコしていた。
 世間は、それを知らず、仕事の場で怒鳴り散らす様子から、家庭でもそうだろうと想像して「子供たちは、さぞ萎縮して暮らしているのだろう」と同情していた。が、その長男によると「死ぬまで、怒った顔は一度も見たことがない」という。
 下元は、組合の若手職員や組合員の子弟、その他多くの若者と親しく交ったが、職場以外では慈父の様に接し、「親父、おやじ」と慕われた。
 三つ目は、酒を呑んだ時の顔である。高知県人にしては酒に弱く、一寸呑むと青くなってニタニタ笑った。皆、青くなるのまでは判ったが、何故笑うのかは見当がつかず、気味悪がったという。
 この下元健吉に会った大宅壮一が「下元さんは、体内で発生しているエネルギーが常人とは比較にならぬほどボルテージが高い」という意味のことを言ったそうである。(大宅壮一=評論家。一九五四年、来伯)
 確かに下元が事業に向けて発散させるエネルギーは凄まじかった。しかも一旦こうと思ったら何がなんでも押し通した。
 それが、前記した大事業を成し遂げさせたのであろう。が、世の下元論は必ずしも一定しない。
 組合員や職員の中には彼を痛烈に批判する人々がいた。アンチ下元派である。
 コロニア(戦前は「邦人社会」と表現)の指導者間では、下元は強烈すぎる個性が嫌われ、敬遠された。
 一方、組合内外の、主に若者の間には、下元敬愛派が多数、存在した。
 アンチ下元派、敬遠派、敬愛派と、これも三種類あったことになる。
 無論、世に完璧な人間など存在せず、誰でも表面と裏面、長所と短所があり、成功と失敗を繰り返して生きている。他人の見方が三種類あっても、おかしくない。
 むしろ、それを語ることが、下元を正確に描く近道となろう。
(つづく)